| クイズ番組でみごと全問正解し,史上最高額の賞金を勝ちとった少年ラム.警察は,孤児で教養のない少年が難問に答えられるはずがないと,不正の容疑で逮捕する.しかし奇蹟には理由があった.殺人,強奪,幼児虐待.インドの貧しい生活のなかで,少年が死と隣あわせで目にしてきたもの.それは,偶然にもクイズの答えであり,他に選びようのなかった,たった一つの人生の答えだった――. |
ダニー・ボイル(Danny Boyle)の映画「スラムドッグ$ミリオネア」(2008)は,製作費わずか約1400万ドル,劇中の言語の3分の1がヒンディー語という小規模な企画にすぎなかった.公開直前にはワーナー・インディペンデント・ピクチャーズが配給を断念するなど,日の目を見ない可能性さえあった.しかし結果的には世界興行で3億7000万ドルを突破し,アカデミー賞作品賞を含む8部門を制覇するに至った.奇跡的な逆転劇は,スラムからの勝利を体現する物語の延長線上であったが,原作と映画のもっとも重要な差異は,主人公の名前である.
映画のジャマール・マリクに対し,原作の主人公はラム・ムハンマド・トーマス――ヒンドゥー=ラム,イスラム=ムハンマド,キリスト教=トーマス――,宗教的に分断された社会を象徴する名が折衷的に付されているのである.外交官としてデリーやプレトリアに勤務した経験を持つ著者ヴィカス・スワラップ(Vikas Swarup)は,この人物を実験的に造形した.インド社会において氏名は階級・宗派を即座に識別する社会的ラベルであり,その響き一つで人は受容も排除もされうる.ゆえに,場に応じてラム,ムハンマド,トーマスと名を使い分け,生存のリスクマネジメントを実践していくのである.
映画ではジャマールという一貫した主体が意志の力で勝ち抜く姿が描かれたが,原作の主人公は流動的なアイデンティティを武器にした柔軟な生存者となる.スワラップは小説家デビューが本書であり,刊行から3年後にはすでに映画化権が売却されていたという幸運に恵まれた.緻密なリサーチを通じて描き出したラム・ムハンマド・トーマスは,デリーの孤児院からタージ・マハルの観光ガイド,果てはオーストラリア大使公邸での使用人まで,社会の周縁を転々とする.インドの多様性を圧縮したともいえるキャリアであり,その足跡は固定された所属を持たない者こそが最も強い逆説を証立てる.
ラムが心の拠り所とする「幸運の1ルピー硬貨」とは,彼が自ら選び取り,信じることで初めて効力を持つ主体的な呪具であった.各章は,番組で出題された問題の「解」が明かされるラム・ムハンマド・トーマスの記憶のキャリアとなっている.どんな些細な情景も,決死の体験を経た頭脳には鮮明に記録されていた.何事も,脳内にインプットしただけでは,印象に留まり,物事の是非を判断する記憶にはならない.検索キューの有機的な結びつきは,物語としてのエピソードであり,それを想起することの福音と,記憶が甦ることの苦痛が,見事なまでに対比されている.
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Title: Q AND A
Author: Vikas Swarup
ISBN: 9784270102770
© 2009 ランダムハウス講談社
