| シラノは学者で詩人で軍人で,おまけに天下無双の剣客だが美男とは言いかねる大鼻の持主.この豪傑が「考えまいと思うそばから,あの命取りの美しさ」と秘かに想いをかける従妹に,あろうことか同僚の色男から仲をとりもって欲しいと頼まれる.十七世紀の実在の人物シラノはロスタンの劇化でフランス一の人気者となった――. |
偏見だが,美貌の女性が拙い文章しか綴れないと知れば落胆を隠せない.逆に,外見は凡庸な人物が流麗な筆致の文章や美しい文字を操れば,その才はかえって際立つ.谷崎潤一郎の乱杭歯も,宮沢賢治の野暮ったさも,作品の卓越性に比べれば些事にすぎない.平安貴族が女性を流麗な詩句で口説いたように,内面から溢れ出る魅力は必ず作品に投影され,そこには才気を超えたイデアが宿るものだ.
シラノ・ド・ベルジュラック(Savinien de Cyrano de Bergerac)は,剣技においても詩才においても群を抜いていた.決闘のさなかに8行詩3連の即興バラッドを紡ぎ,その結句とともに相手に止めを刺す場面は,才気と洒脱の化身である.しかし唯一の欠点――不格好で巨大な鼻――が運命を決定づける.美男クリスチャンの恋の代筆者としてロクサーヌに愛を伝えながら,「あなたが醜くおなりになったかと思われる程厭でございますわ」という一言に,才能だけでは愛を勝ち得ない悲劇的真理が突きつけられる.
史実のシラノは,容貌に悩む人物ではなかったという.むしろ自由思想家であり,風刺や恋愛詩のほか科学的な随想も残した.しばしばフランス文学における空想科学小説の先駆とされ,『月世界旅行』『太陽国諸国旅行記』はジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)に先立つ想像力の産物である.剣客としても知られ,その武勇伝は同時代の記録に残っている.エドモン・ロスタン(Edmond Rostand)は,こうした実像にロマンティックな仮構を重ね,滑稽と悲壮を融合させて戯曲を完成させた.
夜の帳の中,老いたシラノが視力を失いながらも淀みなく愛の言辞を読み上げる姿は,肉体の衰えを超えて精神の純粋性を体現する瞬間である.美と才能を巡る真実と仮構のせめぎ合いを描くことで,自然主義的陰鬱さを超える力が獲得されている.ロクサーヌがようやく「真実の愛」を悟るとき,後に残されるのは,爽やかさとともに,大団円を拒む余韻の切なさである.
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Title: CYRANO DE BERGERAC
Author: Edmond Rostand
ISBN: 400325631X
© 1983 岩波書店
