
| 「弱い者がどう扱われているかによってその国の文化程度がわかる」と言いつづけ,盲女性のために苦闘した斎藤百合.幼時失明の不運を努力と天性の明るさでのりこえ,四人の子を生み育てながら東京女子大学の第一期生となった彼女は,「盲女子高等学園」の設立をめざすが……百合に親しく導かれた著者が描く,知られざる先覚者の姿――. |
校是を「良妻賢母」とする女学校は,大正から昭和初期にかけて数多く設立された.女子高等師範学校をはじめ,東京女子大学,日本女子大学校,津田英語塾などがその代表である.全盲の少女・金井(旧姓)キヨが知識と教養の扉を開くに至ったのは,日本の盲女子教育を先導した教育者・斎藤百合の存在によるものである.斎藤が創設した陽光会ホームは,当時としては画期的な盲女子のための教育施設であった.キヨはその最初の生徒となったが,斎藤の推薦を得てもなお,多くの女学校から入学を拒まれた.理由は,「盲人」「女性」という二重の偏見にほかならない.唯一,東京女子大学の初代学長,陽光会の後援会長を務めた安井てつだけが,2人の志を理解した.安井の支援により,キヨは陽光会に勤務しながらYWCA駿河台女学院で学ぶことを許されたのである.
斎藤自身もかつて女子教育の場を求めて途方に暮れた経験をもっていた.彼女を救ったのもまた東京女子大学であった.創立当初の同校は社会枠と呼ばれる枠組みで,経済的・社会的な困難を抱えた女子学生を受け入れており,斎藤はその第一期生として迎えられたのである.この制度は,初代学長の新渡戸稲造が唱えた「女子にも人格教育を」という理念の実践でもあった.女性は家事さえできればよいという風潮が支配的だった時代,東京女子大学のような実験的精神をもつ学校と,旧来の価値観に閉じこもる学校との違いは顕著である.斎藤が「悪しき先例」と呼ばせないだけの評価を得ていたことが,教え子キヨの学びの場を開く決定的な要因となった.こうして斎藤からキヨへと継承された教育理念は,「見えない女性」に生きる誇りを与えるものであった.
盲人女性は当時,女按摩(あんま)と蔑まれる存在であった.斎藤の活動は,その社会的地位を根底から変えるための闘いでもあった.全盲者に対して今なお,「眼が見えるなら何を最初に見たいですか」といった無神経な質問が投げかけられることがある.多くは家族や自然といった答えを期待しているのだろう.しかし,斎藤の日記に記された答えは,それらとはまったく異なる.あるとき斎藤は恋をした.その青年に会うために,彼女は生まれて初めて化粧をした.手探りで頬紅を丸く塗った結果,傍目には滑稽な顔になっていたという.後日,知人から「今後は化粧に気をつけたほうがいいですよ」と忠告された斎藤は,羞恥で体がかっと火照るのを感じたと記す.ここで彼女が痛感したのは,見えない者にとって「顔」とは,他者が認識する自分そのものだという事実である.
斎藤はそこから一つの哲学を導いた.全盲者が見るべきものは,自らの「顔」,すなわち社会に向けて映し出される自分の姿である,と.見えぬがゆえに他者の目を意識しにくい.しかしだからこそ,盲人が意識すべきは「自己のありよう」そのものであり,その尊厳を保つ努力が教育の核心にあるのだと.体験を思想へと敷衍するこの洞察こそ,斎藤教育の真髄である.斎藤が盲人教育学校に入学した1911年は,平塚らいてうが『青鞜』を創刊し「元始,女性は太陽であった」と宣言した年である.女性解放運動の胎動期に,盲目の女性が自助と誇りによって教育の地平を切り拓いたという事実は,偶然とは言いがたい.晴眼者の女子教育が社会的礼節と家政を目的としたのに対し,斎藤と粟津キヨが築いた盲女子教育は,尊厳と自立を志向する自己救済の教育であった.
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原題: 光に向って咲け―斎藤百合の生涯
著者: 粟津キヨ
ISBN: 9784004203421
© 1987 東京女子大学同窓会奉仕グループ
