■「ケイコ 目を澄ませて」三宅唱

ケイコ 目を澄ませて [Blu-ray]

 嘘がつけず愛想笑いが苦手なケイコは,生まれつきの聴覚障がいで,両耳とも聞こえない.再開発が進む下町の一角にある小さなボクシングジムで日々鍛錬を重ねる彼女は,プロボクサーとしてリングに立ち続ける.母からは「いつまで続けるつもりなの?」と心配され,言葉にできない想いが心の中に溜まっていく.「一度,お休みしたいです」と書きとめた会長宛ての手紙を出せずにいたある日,ジムが閉鎖されることを知り….

 唖の若き女性ボクサーの葛藤を通じて,個人の生の強度と社会的居場所の脆弱性を重層的に描き出している.岸井ゆきの演じるケイコは,聴覚障害を抱えながらも日々ジムに通い,心身を鍛え続ける.戦後復興期から都市の片隅で営まれてきたジムは,都市の変貌に抗いながら人々が集う共同体として,ケイコにとっての第二の故郷となっていた.しかし,クラブ会長・勝美の老いと健康悪化とともにジムは縮小し,やがて閉鎖の危機に直面する.ケイコの人生の選択とクラブの崩壊は二重写しとなり,居場所の喪失と人生の有限性を痛切に感じさせる.

 二度の勝利とその後の敗北,休養という選択は「戦わないこと」も重要な自己決定であることを静かに示している.会話は極力削ぎ落とされ,音響は沈黙や環境音に重点を置く.観客はケイコの感覚世界を体験しながら,都市の雑踏やジムに漂う汗の匂いをより生々しく感じ取ることになる.従来の劇伴や効果音による外的補強を避け,現場音とフォーリーを多層的に重ねる手法が採用されている.環境音トラックでは,東京下町の雑踏や電車の通過音を高感度マイクで収録し,サラウンドで配置している.しかし定位は中央寄りに調整され,観客は聞き取りにくい音にも意識を向けざるを得ない.

 身体音トラックには,縄跳びの床鳴り,手の皮がロープに擦れる音,グローブがミットを打つ重低音などが含まれる.実際の音よりも誇張してミックスされることで,ケイコの身体的負荷を聴覚的に強調している.無音トラック(サプレッション)が挿入される場面は,ショットガンマイクに加え,リング床にコンタクトマイクを設置して振動を直接拾ったという.これにより,打撃音を聞くのではなく「骨」で伝わる感覚として体験することができる.映像面では,16mmフィルムの使用によって粗さと親密さが意図的に設計されている.

 クローズアップはケイコの汗や拳,息遣いに迫り,音響設計と同期しながら身体そのものが風景となる瞬間を捉える.一方,ロングショットではジム全景や荒川河川敷を粒子感豊かな光で映し出し,都市の余白を際立たせる.カメラは低い位置に構えられ,観客はしばしばケイコと同じ視線,あるいは相手を見上げる視点を共有することになる.音響と映像に共通するのは,過不足のない選択という美学である.劇伴を廃し,環境音と身体音を分厚く重ねること.16mmフィルムの粒子で世界の濁りを映すこと――身体を通じた感覚世界へ観客を接続させ,都市の雑踏と静寂の狭間に響くケイコの息遣いは,存在の強度を鮮やかに印象づけている.

ケイコ 目を澄ませて [Blu-ray]

ケイコ 目を澄ませて [Blu-ray]

  • 岸井ゆきの,三浦誠己,松浦慎一郎,佐藤緋美
Amazon

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: ケイコ 目を澄ませて

監督: 三宅唱

99分/日本/2022年

© 2022 「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会