| 「どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間.そういう人間だけが政治への『天職』を持つ」.マックス・ヴェーバー(1864-1920)がドイツ敗戦直後,自らが没する前年に行った講演の記録.政治という営みの本質,政治家がそなえるべき資質や倫理について情熱を傾けて語る――. |
ミュンヘン大学で行われた講演――1919年1月28日――を基に同年7月に出版された,マックス・ヴェーバー(Max Weber)の最晩年の政治思想である.第一次世界大戦の敗北により,帝政ドイツは瓦解し,ヴァイマル共和国という新しい国家が胎動していた.ドイツ国内は革命の混乱に揺れ続け,バイエルンでは短命なソビエト共和国が樹立され,街頭ではスパルタクス団による蜂起と義勇軍(フライコール)の武力鎮圧が繰り広げられていた.ヴェーバーはこの時期,ミュンヘンに身を置き,激動の只中で政治の本質を語った.講演の聴衆には当時の若い知識人や将来の政治家の卵が多数含まれていた.中には後にナチ党の理論家となる人物もおり,ヴェーバーの言葉はその後のドイツ政治に複雑な影響を与えたことになる.
講演会場は混乱を避けるために厳重な警備が敷かれ,政治的暗殺の恐怖が漂う中で行われた.本書の中心命題は,政治を天職とする者に課せられる外的・内的条件である.外的条件として,大衆民主化が進む中で政党の官僚制化が不可避となり,政治指導者の選出において〈人民投票的形態〉が発展する現象を指摘する.ヴェーバーは,無機質な官僚制が国家を支配する「鉄の檻」に抗するものとして,人民の直接的な信任を得るカリスマ的指導者の出現を期待した.〈指導者民主主義〉の構想は,後にナチズムとの連想から危険視されるが,ヴェーバーの意図は無制約な独裁ではなく,官僚制の硬直化を打破する民主的リーダーシップであったことを見逃してはならない.
政治指導者,したがって国政指導者の名誉は,自分の行為の責任を自分一人で負うところにあり,この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし,また許されない.官吏として倫理的に極めて優秀な人間は,政治家に向かない人間,とくに政治的な意味で無責任な人間であり,この政治的無責任という意味では,道徳的に劣った政治家である
内的条件に関して,ヴェーバーが展開するのは2つの倫理――〈心情倫理〉〈責任倫理〉――の峻別である.前者は「正しさ」に忠実であろうとする態度であり,結果よりも意図を重視する.他方,責任倫理は,行為の結果を予測し,その帰結に責任を負う姿勢である.政治の本質が暴力と不可分である以上,ロマンチックな信念に殉ずる政治家よりも,結果に対する重荷を引き受ける現実主義者を,ヴェーバーは高く評価した.しかし両者を対立として描かず,情熱と冷静,信念と責任を統合することこそ,真の政治家の資質であると結論づける.3つの資質――情熱・責任感・距離を取る冷静さ――は,ヴェーバーの思想全体を貫いている.
自分が世間に対して捧げようとするものに比べて,現実の世の中が——自分の立場からみて——どんなに愚かであり卑俗であっても,断じて挫けない人間.どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間.そういう人間だけが政治への『天職』をもつ
情熱だけでは革命家で終わり,冷静さだけでは官僚に堕す.政治家とは,この両極の間で悪魔と契約しつつ,その悪魔に呑み込まれない者でなければならない.宗教社会学を研究したヴェーバーらしさを帯びた比喩である.ヴェーバーはこの講演の前々年『職業としての学問』で学者の倫理を論じており,両者は対をなしている.学問は「悪魔と手を結ばぬ」純粋性を保持しうるが,政治は悪魔との契約を避けられない.ヴェーバー自身,フリードリヒ・ナウマン(Friedrich Naumann)らとともにドイツ民主党を結党するほど政界に近かったが,最終的には学問の道にとどまった.決断の背後には,政治における責任の重さを誰よりも理解していたヴェーバーの自己認識があった.
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Title: POLITIK ALS BERUF
Author: Max Weber
ISBN: 9784003900031
© 1980 岩波書店
