▼『牡蠣礼賛』畠山重篤

牡蠣礼讃 (文春新書 542)

 三陸で牡蠣を養殖している漁民が,世界の牡蠣を尋ねてみると不思議な縁が待っていた.牡蠣と人生を共にしているからこそ見える魅惑の世界.牡蠣への限りない愛情に溢れた一冊――.

 蠣は,古代ローマの将軍ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)も愛した「海のミルク」.亜鉛やグリコーゲンを豊富に含み,その滑らかな舌触りと芳醇な甘みは,まるで海が生んだ果実のようである.しかし,同時にその生食には細菌やウイルスという棘が潜む.美味と危険の狭間にあるこの二枚貝には,人間と自然との繊細な関係が結ばれている.宮城・舞根湾で牡蠣養殖を営んだ著者によるエッセーであり,海と森と人との連関を実証的に描いた一冊である.牡蠣という小宇宙を通して,生命循環の物語を描き出す.

 著者が指摘する「森は海の恋人」という理念は,矛盾でも比喩でもない.牡蠣が食べるプランクトンは,山の針葉樹から流れ出る腐葉土の栄養分に端を発する.海の生命を支えるのは山の恵みであり,森を守ることが牡蠣を育て,海を豊かにする.この発見は,環境保全の根本を突く哲学である.著者が山の植林活動を通じて地域住民を巻き込み,森と海を一体の生態系として捉え直した功績は,養殖業者の範疇を超えている.アメリカ・ワシントン州のオリンピアオイスター,オーストラリア・タスマニアの冷水種,中国・沙井の干し牡蠣──その比較文化的視点は,海洋民俗学と食文化史を横断する.

 取材は情報を歩いて掘り起こす実践そのものであり,現場の手触りがある一方で,読者は,現代の食文化が抱える倫理的な問題にも気づかされるだろう.清浄な海域で採れた牡蠣しか生食してはならないという当然の事実も,流通と衛生管理が複雑化した今日では揺らいでいる.徹底した品質管理を行う生産者がいる一方で,消費者の無知が悲劇を招くこともある.本書は,牡蠣の成長過程や調理法,カキ殻のリサイクル利用――胡粉や肥料への転用――など,専門家でなければ知り得ない知見が網羅されているが,根底には自然を読む力への敬意が貫かれている.

 カエサルが戦場で牡蠣を求め,ルイ14世(Louis XIV)が宮廷の晩餐で牡蠣を愛したように,人はいつの時代もこの二枚貝に欲望と知恵を映してきた.牡蠣を通して自然を見る視線は,やがて人間そのものを見つめ返すものだ.昭和40年代,フランスの牡蠣が病害で壊滅した際,三陸の種牡蠣が海を越えて送り届けられ,フランスの牡蠣文化を救ったという.ラングドック地方の養殖業者たちは,その恩義を忘れず,日本の牡蠣がフランスの海を蘇らせたと語り継いでいる.牡蠣は国境を越えて,環境と文化の橋渡しをしてきたのである.

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原題: 牡蠣礼賛

著者: 畠山重篤

ISBN: 4166605429

© 2006 文藝春秋