| 湯川氏の業績ほどにはその人を知る者は少ないだろう.これは博士自身が綴る生い立ちの記である.「孤独な我執の強い人間」と自身を語り,その心に去来する人生の空しさを淡々と説く文章は,深い瞑想的静けさをたたえる.科学者として最高の栄誉に飾られた博士の感慨であることを思う時,読者は深い想いにとらわれるだろう――. |
敗戦の傷痕がまだ生々しく残る日本社会は,疲弊しながらも再生の途上にあった.そのさなかに届いた湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞の報は,暗闇の中の灯のように国民を勇気づけたという.本書は,その栄光に至るまでの孤独な探求の軌跡を描く回想録であり,一科学者の思索が世界的思考へと開かれていく過程を静かに証言している.叙述は「中間子理論」の完成で終わるが,湯川はその後,非局所場理論や素領域理論など,より根源的な自然像の探究へと踏み出していく.
書名の「旅人」とは,未知への知的遍歴を続け,安住を知らぬ研究者の宿命を,自らの歩みに重ねたものであろう.孤高の知性が抱えた内面的葛藤と,創造の本質に対する透徹した自覚こそが未知の理論を築く基盤となる――その学問観には,禅的な省察の気配さえ漂う.少年期の湯川が傲慢な数学教師のせいで数学を嫌いになったエピソードは,天才の形成における偶然の妙だろうか.
私の小世界の窓は,学問の世界の方に向ってしか開かれていなかった.しかし,その窓からは,私にとって十分すぎるほどの光がしじゅう入ってきた
純粋数学に進んでいたら,中間子理論は存在しなかったかもしれない.20世紀初頭,量子力学や波動力学が急速に発展していたが,湯川はその最前線に身を置きながらも,他の誰も見たことのない「中間の粒子」を理論的に導き出した.1947年にパイ中間子が発見されたとき,世界は湯川の予見の正確さに驚嘆した.本書は,学問を人間の精神的行路として描いた知的自伝である.そこには,理論という「地図」をまだ持たぬまま未知の大陸を歩む孤独な探検者の姿を見出すことができる.
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原題: 旅人―ある物理学者の回想
著者: 湯川秀樹
ISBN: 4041238013
© 1960 角川書店
