| 老いて死に瀕した一人の男が,意識の塊と化して長い仮死の夢を見る.そこに沸き立つのは高らかな万葉びとの声,野辺送りの声,笑い転げる兎や蛙の声,源氏の男君女君の声,都を駆けるつわものたちの声,定家ら歌詠みたちの声,そして名もなき女たちの声……古文と現代文の自在な往還を試みた独創的文体,渾身の長篇小説――. |
大和のことばが生の震えとして日本語の魂を掘り起こす.主人公は,能楽師の家に生まれ,かつて法廷速記者として言葉の臨界を扱ってきた男である.自死未遂という極限の経験を経て,意識は古代日本語の夢の深層へと沈潜していく.そこでは『万葉集』『源氏物語』『平家物語』『太平記』の声が交錯し,古文と現代語の境界が融解する.語りは時代を往還しながら,言葉の変遷を音として響かせる.その構造は「夢幻能」のようであり,過去,声と沈黙がひとつの文体の中に共鳴する.
髙村薫は『マークスの山』『レディ・ジョーカー』など,社会構造を描く巨篇で知られるが,作品世界を貫いているのは,つねに言葉への信仰である.本書はその極北に位置し,法廷の言葉,企業の言葉,宗教の言葉を経て,ついに「日本語」そのものを主題化したといえるだろうか.擬音の詩的な配置が特異である.「ばららん」「タン,タタ,タン,タタ……」――音響描写に見えるが,日本語の生成のリズムを表している.主人公が聴く古典の声もまた,死者の声=能の幽玄な世界である.
髙村は2013年から2025年まで直木賞の選考委員を務めた.その間,評価者として注視していたのは,物語の巧さよりも言葉の生理であったという.映像化しやすい小説は,現代文学が言葉よりも視覚に傾きすぎたことへの警鐘である.本書は,その潮流に抗うように,読者に「聞く文学」を提示するのである.日本語は時代とともに変わる.平安貴族の雅語と鎌倉武士の荒々しい語感は,同じ日本語でありながら,まったく異なる身体感覚を宿している.
本書はその差異を言語変化だけではなく,人間の変化として描く――言葉が変わるとは,人が変わることという命題――古典の声を再び現代に蘇らせ,日本語という墓に眠る霊たちを呼び覚ます.その響きは,意味を超えた音の快楽といえる原体験を背景に,言葉が意味から解き放たれ,純粋な響きとして立ち上がる.聴覚的文学の志向は,谷川俊太郎の詩やジェイムズ・ジョイス(James Joyce)『フィネガンズ・ウェイク』の試みに通じるだろう.声とは常に仮面であり,その裏にあるのは沈黙である.
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原題: 墳墓記
著者: 髙村薫
ISBN: 4103784113
© 2025 新潮社
