▼『ハーメルンの笛吹き男』阿部謹也

ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)

 《ハーメルンの笛吹き男》伝説はどうして生まれたのか.13世紀ドイツの小さな町で起こったひとつの事件の謎を,当時のハーメルンの人々の生活を手がかりに解明,これまで歴史学が触れてこなかったヨーロッパ中世社会の差別の問題を明らかにし,ヨーロッパ中世の人々の心的構造の核にあるものに迫る.新しい社会史を確立するきっかけとなった記念碑的作品――.

 ーロッパ民間伝承の闇に,史学の光を当てた労作である.1284年,ハーメルンで130人の子どもが忽然と姿を消したという記録は,史料的裏付けを伴う「歴史的事件」であると著者は位置づける.ハーメルンのマルクト教会に刻まれたステンドグラス,リューネブルク写本に残るのは「上等の服を着た30歳前後の美しい男」.16世紀以降に融合する「笛吹き」「鼠捕り」のイメージ――民間伝承が時代の社会意識を反映して変容していったかを物語る.

 本書はこの変遷を,社会的想像力の軌跡として読み解こうとする.不定住の吹奏楽師や鼠捕りたちは,中世ヨーロッパにおける"境界民"であり,社会秩序の外縁で生きる存在だった.彼らに向けられた嫌悪と蔑視は,不労に対する道徳的警戒心,すなわち労働を徳とする市民倫理の誕生と深く関わっていたという分析は見事である.興味深いのは,伝説が生成される社会的記憶の力学にまで踏み込んでいる点である.

われわれは中世政治史や文化史のロマネスクやゴシックの建築に象徴させる華麗な叙述の背後に,痩せさらばえ,虚ろな顔をして死にかけた乳児を抱いて,足を引きずるように歩いていた無言の群衆を常に見据えていなければならないのである

 「子ども消失事件」は,東方移住(ドイツの東方入植),十字軍帰還後の人口移動,疫病による大量死など,多様な社会現象の比喩にほかならない.笛吹き男は魔術的存在と捉えられるべきではなく,時代の変動そのものを擬人化した影像であろう.後世この伝説はグリム兄弟(Jacob Ludwig Karl Grimm & Wilhelm Karl Grimm)によって再話され,サミュエル・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge),ロバート・ブラウニング(Robert Browning)らに着想を与えた.ハーメルンの町では現在でも毎年6月26日に「子どもの行進」が行われ,笛吹きが子どもたちを連れ去る再現劇が上演される.

 ゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)が17世紀末に「そこには真実が隠されている」と書き残したように,ハーメルンの笛吹き伝説は,合理主義の時代を経てもなお解釈され続ける史実であり続けた.儀式化された記憶こそ,歴史と伝説が融合した文化の証である.本書は,その寓意を汲み取りながら,民衆史の深層に沈殿した「無名の声」を掬い上げる試みである.童話という柔らかな衣をまといながら,史学的な検討によって伝説の再魔術化を拒み,歴史の悲鳴を聞き取ろうとする意欲的研究である.

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界

著者: 阿部謹也

ISBN: 4480022724

© 1988 筑摩書房