| 32歳の課長である私は,不倫相手の良子が服役中の夫を持つと知り,社会的立場を守るため殺害を図る.しかし遺体発見の報道がなく,数日後に上諏訪で記憶喪失の女性が現れたという新聞記事を発見し,良子の生存を疑い始める――. |
犯罪とその解決を巡るサスペンスの奥底で,記憶と社会的身分という2つの軸を執拗に揺さぶる.語り手は昇進したばかりの課長――社会的信用を死守せねばならぬ立場の男であり,公的な仮面と私的欲望との乖離が物語の緊張を生む.欲望はやがて暴力と抹消の試みへと収斂し,読者は倫理的瓦解の過程を当事者の視点から追体験させられる.『砂の器』にも通底する,社会的体面を守るために他者を消し去る冷酷である.
表題「たづたづし」は万葉集の古語に由来し「はっきりせず不安である」という意を持つ.古層の言葉を借りることで,物語全体に漂う不確かさ――記憶の有無,語り手の自己肯定の脆さ――が時間を超え反響する.本編は1963年5月『小説新潮』に掲載され,同年10月には短編集『眼の気流』に収録された.以後,映画化・テレビドラマ化が繰り返されてきたが,表層の論理と深層の倫理を別々のレイヤーとして映像化できる構造的な柔軟性があるからだろう.
物語構成上の妙味は,地方紙の記事,駅の風景,喫茶店の会話といった細部を配置し,社会の片隅に散らばる情報の痕跡を拾い上げさせる点にある.それらの痕跡から語り手が線を引き,自己弁護と恐怖が交互に露出してゆく過程は,探偵小説的な証拠の組み立てと,心理小説的な内的崩壊との二重奏をなすものだ.長野県富士見や上諏訪という山麓の境界地帯を舞台に選ぶことで,都会で構築された主人公の身分が動揺する様が,地理的な象徴性をもって描かれる.
あの女は本当に死んだのか,生きているのか――法的責任の可視化とは別の次元で男の不安を増幅させる.記憶を欠いた他者こそが,語り手の心理的安定と社会的安全を脅かす存在となるのだ.記憶という私的な証拠が公共的秩序に影響を及ぼすとき,倫理は法の枠外で揺らぎ始める.清張はその揺らぎを,冗語を排した静謐な筆致で描く.平易な語り口の裏に冷徹な論理を忍ばせ,事件の叙述は淡々としているが,読者には不快なまでの説得力を与える.読後に残るのは,犯行の衝撃ではなく,語り手の未来に垂れ込める重苦しい予感である.
++++++++++++++++++++++++++++++
原題: たづたづし
著者: 松本清張
ISBN: 4101109397
© 1976 新潮社
