| わずかな手掛りをもとに,苦心惨憺,殆ど独力で訳出した「解体新書」だが,訳者前野良沢の名は記されなかった.出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に,彼は終始地道な訳業に専心,孤高の晩年を貫いて巷に窮死する.わが近代医学の礎を築いた画期的偉業,「解体新書」成立の過程を克明に再現し,両者の劇的相克剋を浮彫りにする感動の歴史長編――. |
ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムス(Johann Adam Kulmus)『解剖学表』は,ラテン語・フランス語・オランダ語へと次々と翻訳され,欧州で広く読まれた書物である.この書が江戸日本にもたらされ,杉田玄白が『蘭学事始』に記した日本語表記"打係縷亜那都米"(ターヘル・アナトミア)は,原語の発音とは著しく異なる.当時のオランダ語の音を捉えきれなかっただけでなく,俗称の響きをもじって和字に落とし込んだ側面がある.こうした言語的齟齬は,玄白が蘭学の象徴として時代の寵児となり,後年「九幸老人」と号した華やかな姿とは裏腹に,学問的厳密さよりも実務処理に長けた人物であったことを示唆している.
吉村昭は,玄白の学問的態度を微細な「誤記」から逆照射する.玄白は『蘭学事始』の中で,「隆起」を意味する"verheffende"を「鼻」と訳出した着想を得たと記す.しかし,この語は原典の『解剖学表』には存在しない.これを老境の記憶違いとして済ませるには,あまりにも軽率である.吉村はこの一点の矛盾から,玄白の姿勢――翻訳の正確性よりも出版という事業の完成を優先する性格――を鋭く描き出し,楔として人間の本質へと踏み込んでゆく.玄白の対照として立つのが前野良沢である.良沢は長崎留学で蘭学を実地に学んだ数少ない医家であったため,翻訳作業の中心的役割を担った.
玄白,中川順庵,石川玄常,桂川甫周らの語学力では到底『解剖学表』に太刀打ちできず,翻訳は遅々として進まぬ.良沢は「冬の原木に一羽だけ佇む孤高の鷹」に喩えられる学究の潔癖を備え,細部の厳密を欠いた書物を世に出すことを断固として拒む.一方,玄白は誤謬を含んでも出版を急ぐ.吉村はこの対照を,近代日本における学問の倫理的矛盾として配置する.どちらが正しいと断ずるよりも,二者の性格的差異が近代医学の形成に異なる貢献をなした事実を,静謐な筆致で叙述するのである.物語を彩る脇役として登場する平賀源内も,物語の構想において重要な意味を担う.
エレキテルの修理から戯作,鉱山調査まで,天下の奇才と称された源内は,玄白が「嗟非常人,好非常事,行是非常」と評したとおりの八面六臂の人物であった.だが多芸は結局一芸を極めることを妨げ,つまらぬ訴訟沙汰で牢に入り,そのまま獄死する.合理主義の玄白,学究の純粋を極める良沢,多才にして器用貧乏の源内――三者の像は,それぞれが日本の近代医学史への食い込み方の違いを雄弁に語る.こうした人物群像を通じて,洋の東西を問わぬ普遍的な問い――功名を遂げる者に求められる資質は何か――を描き出す.読者がどの人物にシンパシーを覚えるかを省みるとき,スペシャリズムの対立と融和という難題が,自らの問題として立ち現れるのである.
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原題: 冬の鷹
著者: 吉村昭
ISBN: 4101117055
© 2012 新潮社
