| 「わたしの政治への関心は,ぜんぶ託児所からはじまった.」英国の地べたを肌感覚で知り,貧困問題や欧州の政治情勢へのユニークな鑑識眼をもつ書き手として注目を集めた著者が,保育の現場から格差と分断の情景をミクロスコピックに描き出す――. |
英国社会の底部で進行した階級分断を,保育という最前線の立場から同時代史として写し取った記録である.本書の核心にあるのは「ソーシャル・アパルトヘイト」という言葉であり,ナショナル・チルドレンズ・ビューローが2013年に公表した報告書"Born to Fail ?"に端を発して教育界へ急速に浸透した.報告書は,1969年以来160万人の子どもが新たに貧困に陥ったと警告し,英国がかつて掲げた「機会の平等」がいかに風化しつつあるかを示したのである.ブレア政権のスローガン「教育,教育,教育」は,語感の強さゆえに英国では揶揄と期待の双方を伴う政治的記号となった.しかし2010年以降の保守党政権は,教育重点化政策を根本的に転換し,緊縮政策のもとで貧困層のスティグマ化を加速させた.
タブロイド紙が「怠惰なシングルマザー」「福利厚生で贅沢する移民」といった紋切り型の物語を量産し,国民の怒りを制度よりも個人に向ける役割を果たしたことはよく知られている.このメディア構造が,すでにソーシャル・アパルトヘイトの文化的温床だった.著者が保育士として勤めはじめるのは2008年,イギリス南部の都市ブライトンである.しかし配属された無料託児施設は,光の当たらぬ別世界にあった.「全国最悪水準1パーセント」に該当する地区であり,そこに集まるのはヒッピー系インテリのアナキスト,ドラッグや十代妊娠が連鎖するチャヴ,英語力の弱い移民層という3つの脆弱集団である.三者は互いに連帯せず,むしろ同じ貧困をめぐって争い合っていた.著者がこの託児所を「緊縮託児所」と名付けたのは,サービス内容が財政削減によって縮小しただけでなく,ここに通う人々の心の余裕までもが削られていく場所だったからである.
英国では移民が差別されるという語りが定着しているが,著者が見たのはむしろ,補助金カットのあおりでチャヴやアナキストが消え,最後に残った移民層がわずかな社会資源をめぐって先住の貧困層を排除するという逆転現象である.この描写は,英国がEU離脱の国民投票で移民問題を政治化していく過程と共時性を持つ.ブライトンはEU残留派の強い地域として知られ,同市の周辺だけ投票地図が青く染まったことで,この地が多文化主義の最後の防波堤とみなされていた.緊縮託児所は2015年からの1年半で,経営難,フードバンク化,閉鎖へと転落していく.政治は議論でも思考でもない.それは生きることであり,暮らすことだ――この言葉の背後には,政策変更が子どもたちの未来を直撃する具体的崩壊という認識がある.本書の価値は,マルクス主義史観による「今日までのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」(『共産党宣言』1848年)という命題を,21世紀の英国社会で実証してみせた点にある.
階級闘争とは労働者と資本家の二項対立に限られない.社会の余白で,最底辺の人々がさらなる底を押しつけられるときに発生する「細分化された闘争」であり,福祉制度や教育制度という装置を通じて不可視化される現実である.ゆえに本書は,階級が再編されていく微細な現場を捉えた現代社会学の記録でもある.ソーシャル・アパルトヘイトが強化されるなかで最も犠牲になるのは,他でもない子どもたちである.どの階層に生まれ,どの制度に触れ,どの保育・教育を受けるかによって,その人生の可能性が決定的に規定される.構造的不平等を,著者は保育という労働の身体感覚から訴える.そこに本書のユニークな強みがある.イデオロギー論争よりも先に,目の前の小さな手を握り,彼らの未来の重さに直面する者だけが獲得し得る視点である.
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原題: 子どもたちの階級闘争―ブロークン・ブリテンの無料託児所から
著者: ブレイディみかこ
ISBN: 9784622086031
© 2017 みすず書房
