| 十六世紀に日本を訪れたヨーロッパ人は茶の湯の文化に深い憧憬を抱いた.茶に魅せられ茶を求めることから,ヨーロッパの近代史は始まる.なかでもイギリスは独特の紅茶文化を創りあげ,茶と綿布を促進剤として伸長した資本主義は,やがて東洋の門戸を叩く.突如世界市場に放り出された日本の輸出品「茶」は,商品としてはもはや敗勢明らかだった.読者がいま手に茶碗をお持ちなら,その中身は世界史を動かしたのである――. |
茶の湯気と香り,そこには近代世界史の奥底に潜む権力と欲望の匂いが立ち昇る.16世紀,南蛮船が運んだヨーロッパ人は,日本で茶の湯文化に遭遇した.質素にして洗練され,精神性と美の極致を兼ね備えた儀礼に,彼らは深い驚異を抱く.だが同じ茶葉は,西洋で砂糖とミルクをまとい,社交と労働の潤滑剤へと転化する.ここに早くも,文化の受容と利用の相克が胚胎していた.イギリスは紅茶文化を「国民の飲料」として制度化し,背後で莫大な富を世界各地から吸い上げた.
茶葉の大部分を中国・広東から輸入せざるを得なかった英国は,銀の流出に怯え,ついにアヘンを武器とした貿易不均衡の解消へ踏み込む.大英帝国の台頭,清朝の崩壊,近代アジアの地殻変動に直結する歴史的暴力である.アヘン戦争を遠因とした紅茶消費の増大は,午後4時のアフタヌーンティーという優雅な習慣に包み隠されながら,暗い影を落とし続けている.ヴィクトリア朝では紅茶の輸入額が軍事費に匹敵した年があり,茶が王冠と同等の戦略物資であった事実は驚嘆に値しよう.
イギリスで紅茶にミルクが加えられるようになった背景には,当時の陶磁器が熱に弱く,ミルクを先に注ぐことで破損を避ける目的があったという俗説もある.器の都合が文化を変えたというのは,茶史の中でも示唆的なエピソードだ.では同じ時期,日本の茶はいかにして国際市場の舞台を逸したのか.鎖国と貿易制限は平穏を守りもしたが,茶を世界産業化する機会を逃した事実は否定できない.幕末に至り日本茶は輸出品として世界に放り出されるが,その頃にはすでに紅茶が王座を占め,緑茶は市場競争において脇役に退いていた.茶の湯を生んだ国が茶の流通を制覇し得なかった一方で,精神性を削ぎ落とされた茶が世界経済を支配したのである.
ヨーロッパ人が畏敬した茶の湯を自らは継承せず,甘味と乳脂で多幸感を強めた紅茶へ変質させた今日,読者が手にするカップの中身は,アッサムの茶園,カリブ海の砂糖プランテーション,広州十三行の商館,ロンドン証券取引所を直線で結ぶ液体の歴史である.茶葉は文化交流の媒介として世界を繫ぎ,また帝国支配の道具として人々を縛った.まさに,緑茶と紅茶は文明の双面神であった.本書は,茶碗一杯が孕む世界史の深淵を示し,ほろ苦くも甘い余韻を残しつつ,我々の喉を潤す一滴の背後にいかほどの歴史が沈殿しているかを教えてくれる.
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原題: 茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の世界
著者: 角山栄
ISBN: 4121805968
© 2017 中央公論新社
