▼『古代エジプト女王伝』吉村作治

古代エジプト女王伝 (新潮選書)

 砂漠の中からよみがえった美しき女王たち.ドラマティックな生涯を魅力的に生ききったヘテプヘルスからクレオパトラまでの古代エジプト史を彩った女性たちの物語――.

 世紀以上にわたりエジプト各地で発掘を続けてきた著者が,エジプト文明に宿る女性権力思想を読み解く.ハトシェプスト女王(Hatshepsut)のミイラ特定は,2007年,DNA鑑定と歯の照合によって確定された.王家の谷の石棺に眠っていた無名の遺体が,3400年以上を経て女王として甦った瞬間,古代エジプトにおける女性権力の歴史が連続した文脈として立ち上がった.エジプトでは,王の正統性を担保するのは王家の女性に付随する神権であったという.王妃は女神ハトホルの権能を体現し,「王の母」として神々の秩序を保証する.

 王位継承権は王女に宿り,王がファラオとしての正統性を手にするためには,王位継承権を持つ王女との結婚が必須であった.女系原理は,ギリシア世界やローマ世界が持たなかった独自の社会構造であって,男性の武力による支配よりも,女性を媒介とする神権によって統治の基盤を支えていた点で特異である.紀元前1479年から同1458年まで,エジプト史上最も安定した治世を築いたハトシェプストは,女系原理が最も鮮明に歴史の表面に現れた王である.戦争を忌避し,紅海を越えてプントとの交易を本格化させた遠征隊は,現存する壁画に香木,象牙,金,動物たちの写実的な姿を残す.

 女王が男性の衣装を纏い,偽の王髭を付けてファラオとしての姿を演出したのは,王たる者は男性像をとるというエジプトの美術的規範を踏襲したものである.すなわち,当時の人々にとって男装した女王は奇異ではなく,「王の図像学」に従ったごく自然な振る舞いであった.しかし,女王の死後,後継者であり義理の息子であったトトメス3世(Thutmose III)は,ハトメスの名と肖像を執拗に削り取った.女性が王権を掌握した事実を歴史から抹消することで,王統の一貫性を取り戻そうとする政治的な意図であったとされる.破壊行為が「消された王」の存在を逆に際立たせ,近代考古学の到来とともにハトシェプストの名は歴史に返り咲くことになった.

 本書は,こうした女性王の歴史的条件を,女性が強かった文明という通俗的な理解に矮小化せず,宗教思想・王権論・政治儀礼の重層的構造の中で読み解いていく.著者自身が幾度も発掘調査で経験した現地の風土やエジプト人の生活観も随所に挿入され,古代と現代を架橋する語りが醍醐味か.興味深いのは,ヘロドトス(Herodotus)がエジプトを訪れた際「母神イシスこそ,この国で最も重要な神」と記した点である.男女が同じ市場で働き,財産権を持ち,契約書に署名できたという,当時としては異例の男女同権社会――エジプトにおける女性権力は,宗教と政治が渾然一体となった制度的基盤に支えられていたのである.

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原題: 古代エジプト女王伝

著者: 吉村作治

ISBN: 4106002523

© 1983 新潮社