| 八十歳の母を祝う花見旅行を背景にその老いを綴る「花の下」,郷里に移り住んだ八十五歳の母の崩れてゆく日常を描いた「月の光」,八十九歳の母の死の前後を記す「雪の面」.枯葉ほどの軽さのはかない肉体,毀れてしまった頭,過去を失い自己の存在を消してゆく老耄の母を直視し,愛情をこめて綴る『わが母の記』三部作.「老い」に対峙し,「生」の本質に迫る名篇.ほかに「墓地とえび芋」を収録――. |
井上靖は83歳で歿したが,その母は89歳で亡くなった.彼女が80歳の頃は,老いに蝕まれて旧い記憶を初度のごとく,レコード盤のように繰り返した.その言葉,老人独特の楽天的な笑い声,時折の放心した表情に,息子は距離感をもって見守るべき情感を見出している.満開の桜花の下で,そのような感慨「哀れさ」を抱かせる母の姿を内面的にとらえるのである.
5年後,母の症状は進む.還暦を越えた井上の姿は,あるとき母の中では「嬰児」となっていた.白い月光を浴びて,23歳の若き母は自分を探し求めて田圃道を彷徨っている.その映像が一枚の絵となって,井上の瞼に描かれた.さらにもう一枚の絵が浮かぶ.そこでは還暦を過ぎた自分が,85歳の母を求めて同じ道を歩いている――妄執にも似た情念が,幻想的な月明かりで閃く物凄さ.
一枚の絵は冷たいもので濡れ光っており,もう一枚の絵には何か凄まじいものが捺されてあった.この二枚の絵は,しかし,すぐ私の瞼の上では重なり合って一つの絵になった
さらにそこから5年.母は逝った.愛別離苦の痛みの中にも,しんと降り続ける雪の夜を,母はいくつも越えて来たのだと語り手は思索する.母は長く烈しい闘いをひとりで闘い,闘い終わっていくつかの骨片になってしまった.記憶が毀れ,肉体が衰退していく老耄の母を引きとめ,見送る雪月花.抒情を篭めた実録に,人間の根源的な生に対する問いと,深い思念が宿っている.
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原題: わが母の記―花の下・月の光・雪の面
著者: 井上靖
ISBN: 4061975757
© 1997 講談社
