▼『消された科学史』ジョナサン・ミラー,スティーヴン・J・グールド〔他〕

消された科学史 (みすずライブラリー)

 『レナードの朝』や『火星の人類学者』から神経科医として体験したエピソードをひきつつ,自然の全体を捉える新たな科学理論の構築にまで論を展開するサックス.『ワンダフル・ライフ』でもおなじみの,進化イコール進歩という誤った概念について,愛蔵の図像コレクションをならべて巧みに語るグールド.そして医学博士にしてテレビ・劇場・オペラなどマルチプロデューサーのミラー.名著『優生学の名のもとに』のケヴレス.生物学界の論客ルーウォンティン.歴史の偶然と必然のドラマをめぐる豪華な競演,5篇のエッセイを所収――.

 学は直線的に進歩する――素朴な信念は,いまだ多くの人々を捉えて離さない.ところが科学史には見過ごされ,誤解され,時には意図的に忘却された「暗点」が無数にある.そこには人間的な迷妄と偏見が渦巻いている.医師にして演出家としても知られるジョナサン・ミラー(Jonathan Miller)は,科学が「理性の光」で無意識の暗闇を自覚することで成熟すると論じる.スティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould)は,ダーウィン説以降の進化理解の歪みを鋭く指摘する.批判の矛先を向けるのは,博物館や教科書に蔓延する「進化の梯子」「人類の系統樹」といった図像である.

 グールドはこれらを「図像の暴力」と呼び,生命進化をある目的へと収束させる人間中心主義の産物だと断じた.グールドがキュレーターを務めたアメリカ自然史博物館でも,この問題を巡って激論が交わされたという.ダニエル・J・ケヴレス(Daniel J. Kevles)は,科学の英雄譚の陰に埋もれた「敗者たちの物語」を掘り起こす.光を当てるのは,がんウイルス研究の黎明期,学界から冷笑されながらも独自の仮説を追い続けた科学者たちの執念である.地道な探求は後にレトロウイルスの発見へと結実し,1980年代のエイズ研究への重要な礎石となった.ケヴレスの筆致は,科学史を勝者の記録から解放する.

 R・C・ルーウォンティン(Richard Charles Lewontin)は,社会生物学への痛烈な批判として名高い.遺伝子決定論が政治的・社会的偏見といかに癒着してきたかを明らかにし,生物は環境の産物であると同時に,環境を創造する存在でもあると主張した.この思想は後に生態学やエピジェネティクスの思想的基盤として再評価された.オリヴァー・サックス(Oliver Sacks)は,神経科医としての臨床経験を基に,科学の発見がいかに偶然と直観に依存しているかを描き出す.『レナードの朝』『妻を帽子とまちがえた男』で知られるサックスは,科学の盲点を明るみに出す光として「逸脱の知」を称揚する.

 5篇を貫く理念は,サックスの言葉に集約される――「科学とは人間的営みそのものであり,突発的な成長や停滞,奇妙な逸脱を伴う有機的な進化である」.我々が幼年期を脱し切れないように,科学もまた人間的な未熟さを内包したまま前進するのだろう.補足すれば,執筆陣の多くはケンブリッジ大学の「科学史・科学哲学連絡会」に関わっており,当時の知的風土にはトマス・クーン(Thomas Kuhn)『科学革命の構造』の影響が色濃く漂っていた.ここに集う科学者らは,科学の理性神話を問い直す「ポスト・クーン世代」の旗手でもあった.

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Title: HIDDEN HISTORIES OF SCIENCE

Author: Jonathan Miller, Stephen Jay Gould[et al.]

ISBN: 9784622050131

© 1997 みすず書房