▼『日本の原爆』保阪正康

日本の原爆: その開発と挫折の道程

 戦時下の日本で秘密裡に進められていた,陸海軍の「原子爆弾製造計画」.戦局の挽回を期し,軍部が命じ科学者の叡智を極めたその営みは,しかしやがて頓挫するのだった……科学者の内なる葛藤,軍人との駆け引き,そしてその後の彼らの生き方とは?戦後,原発立国へと大きく舵を切った日本の,原子力との「前史」を繙く.今,問うべき昭和史の一断面――.

 ットー・ハーン(Otto Hahn)とフリッツ・シュトラスマン(Friedrich Wilhelm "Fritz" Strassmann)が1938年12月,ウラン235に中性子を衝突させることで原子核分裂が起こり,破壊的エネルギーが放出されることを立証してから,広島への原子爆弾投下まで,わずか6年しか経過していない.戦後日本は原発立国として世界の一角を占めるに至るが,戦時下においてすでに陸軍「ニ号研究」,海軍「F号研究」という名称で原爆製造計画が着手されていた.理化学研究所の仁科芳雄研究室と京都大学の荒勝文策研究室には,敗戦の足音が迫るにつれ巨額の研究費が投じられた.ガダルカナル,アッツ,マリアナ沖の敗退以後,戦局を「一撃逆転」する新兵器として過剰な期待が託されたのである.

 仁科研究室には戦時中,サイクロトロンが二基設置されていたが,これらは敗戦直後にGHQの命令により東京湾に投棄された.科学技術の軍事転用を恐れた占領軍による破壊行為であった.原爆開発には,ウラン濃縮によって高濃縮ウランを得る手法と,天然ウランを原子炉で照射した燃料を再処理してプルトニウムを抽出する手法の二系統がある.1930年代半ばから日本でも原子核・宇宙線研究に潤沢な研究費が回されたが,ドイツのハイゼンベルク・グループが持つ巨大なサイクロトロン設備には到底及ばなかった.ウラン鉱石の確保すら満足にできない状況では,アメリカのマンハッタン計画に先んじることは不可能であった.実際,日本が期待した朝鮮半島のウラン鉱床は品位が低く,戦時輸送の困難も加わって,研究に必要な量を確保することさえままならなかったのである.当時の風説では,「マッチ箱一つで大都市が吹き飛ぶ」といった怪情報が国民の間に流布し,陸軍将校は理研や京大の研究者を軍学提携の名のもとに催促した.

 研究者自身は実現可能性が低いことを理解していたが,軍の資金と要請の前で断念する自由は許されなかった.戦時下の科学がいかに自律性を奪われ,実現不能な目的のための動員へと変質したか.その疑いは,3.11後に露呈した東京電力および原子力行政の隠蔽体質が,実は70年前の原爆研究に端を発しているのではないかという疑念でもある.「隠すことを前提とした国家的科学」という遺制があるのではないのか.荒勝グループに属した湯川秀樹は,軍学協力を受け入れる際「国に捧ぐ いのち尚ありて 今日も行く 一筋の道 限りなき道」と詠んだという.湯川は戦後1955年,反核運動の起点といわれる「ラッセル=アインシュタイン宣言」に賛同し,朝永振一郎,武谷三男らとともに署名した.いずれも仁科研究室で育ち,その後ノーベル賞や世界的評価を獲得した物理学者である.だが国際的名声は,軍学協力の記憶と分離できない両義性を帯びている.

 武谷三男が提唱した「原子力平和利用の三原則」(自主・公開・民主)は,原子力産業の倫理規範の基礎となった.しかし同時に放射線の許容量概念を論争のなかで提示した.その定義は「利益のために,やむを得ず受忍する照射量」というものであり,IAEAが推進するコスト論に整合させる形で,隠蔽を含んだ原発推進が制度化されていった.ここには,安全を耐容度に変換するレトリックが介在している.本書において著者は,被爆の主体,戦争責任,国家政策の相違を根拠として「ヒロシマ」「ナガサキ」「フクシマ」を同列に論じることはできないと述べる.しかし歴史的因果においては,核利用と国家管理が横断するかぎり,3つの地域は連続線上に置くべきであろう.原子力は「兵器から平和利用へ」と転換したのではなく,国家が運用するリスクの体系として連続してきたのである.

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原題: 日本の原爆―その開発と挫折の道程

著者: 保阪正康

ISBN: 9784103136729

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