▼『動物園の獣医さん』川崎泉

動物園の獣医さん (岩波新書)

 上野動物園の獣医である著者が,飼育技師の人びとと共に,動物の健康を守るべく日夜努力している様子を,ユーモアあふれる筆致で描いた奮闘記.親がわりに人工哺育でマントヒヒの子供を育てる話や逃げまわるキリンに目薬をつける話など,誕生から死に至るまでのさまざまなエピソードを通して,動物たちが親しみにみちた姿で登場する――.

 物園に暮らす動物の生態を愛称で紹介していく語り口は,実直でありながら,どこか肩の力が抜けた,ほのぼのとした愛情を帯びている.獣医が自らの患者を擬人化すること,それは五感を総動員して相手のコンディションを読み解くための,きわめて実務的なギミックである.動物医療とは,拒否権を持たぬ患者の身体状況を観察,推理,決断する連続であり,擬人化とはむしろ観察のための言語化にほかならない.哺乳類・鳥類・両生類・爬虫類――分類学の教科書を横断するような患者群を一日に抱える専門職が,世界に何人いるだろうか.

 動物園獣医の資格制度は欧米でも遅く,日本でも学術的認知は1990年代以降である.こうした歴史的文脈を踏まえると,著者が日常的に語る四苦八苦は,制度的・学問的フロンティアの記録である.本書の背景に,ごく自然に立ち上がるのは動物福祉(Animal Welfare)という概念である.動物権(Animal Rights)のような思想的急進性とは異なり,飼育され,展示される動物のQOLを担保する管理の方法論である.社会福祉学の論理とほぼ同一の構造をもち,環境の改善,行動欲求の充足,ストレス軽減,治療の倫理性など,評価指標も制度化されている.

 驚くべきことに,この概念には国際学会が存在し,欧州の動物園では施設認証制度まで機能している.スマトラトラ,ニシローランドゴリラ,ジャイアントパンダ,オカピ――希少種の保全はIUCNレッドリストや国際繁殖計画(EEP)の要請と連動する以上,優先度が上がるのは制度論として必然である.他方で,その優先順位は,動物を楽しむ観客の欲望と生物多様性保全の実務とが重なり合う.ここには,動物園という装置の二面性――癒しの娯楽と支配的管理――が,どうしても露骨に現れてしまう.しかし,著者の筆致はその抉りを深刻化させない.

注射や麻酔銃で痛い目にあわせている私どもが,動物に好かれるはずはありません.地球が突如としてサルの惑星にでもなったら,一番先にリンチをうけるのはだれか,そう考えますとつい押さえる力も加減してしまいます

 人工哺育でマントヒヒの子を育てる場面や,逃げまわるキリンに目薬を差すまでのドタバタ劇は,生命に対する手触りを読者にもたらす.出生・離乳・疾病・老衰・死といった人間の福祉領域と同等の人生曲線を動物に適用するとき,そこに立ちあがるのは,生きものが抱える共通の脆弱性と尊厳である.ゆえに動物園は,人間のエゴが他種を囲い込む場であると同時に,絶滅危惧種の遺伝的多様性をつなぎ止めるバックヤードでもある.本書が語るのは,その矛盾の只中で職能を磨き,倫理を編み直しつづける獣医と飼育技師たちの実務である.笑いを誘う語りの底に,日本の動物福祉が制度として成熟しはじめた時期の,貴重な記録である.

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原題: 動物園の獣医さん

著者: 川崎泉

ISBN: 4004202108

© 1982 岩波書店