| ペスト,コレラ,赤痢,チフス,ジフテリア,結核,梅毒,破傷風,炭疽菌……〈見えない敵〉の存在を,人類はいかに見いだし闘ってきたのか.古代人の鋭い洞察から,細菌兵器の問題まで,感染症の研究に身を投じた学者たちの豊富なエピソードとともに,直観と誤解,発見と偏見の連綿たる歴史を克明にたどる――. |
人体には約7兆個もの細菌が共生しているとされ,それらの大半は敵ではない.本書は,見えない隣人と人類の長い関係史を,感染症研究の系譜を軸に描き出している.抗菌コートに覆われた日用品や,過度に清潔な生活環境が,かえって免疫力の低下を招くという矛盾は,一般にも知られつつある.この認識を半世紀以上前に鋭く言語化したのが細菌生態学者ルネ・デュボス(Rene Dubos)であった.「病気はなくならない.なくなるとすれば,それは人類が滅びるときだ」という言葉は,細菌・ウイルス・人類が排他的にではなく,生態系として共存している視点を端的に示すものだ.
本書は,この思想を暗黙の前提にしつつ,人類を絶望に陥れてきた病――ペスト,コレラ,結核,梅毒など――の系譜を辿る.ロベルト・コッホ(Robert Koch)がコレラ菌「コンマ型」を顕微鏡下に見出した瞬間,ルイ・パストゥール(Louis Pasteur)が感染症をめぐる実験を通じて「病原体」という概念を確立していく過程は,科学史の英雄譚として語られてきた.本書もその系譜を踏襲しているが,記述は概観的であり,専門的掘り下げというよりは通史的整理に重きが置かれている.そのため,壮大な題名が示唆するほどの理論的深度を期待すると,やや表層的に感じられる.
一方で,試行錯誤を重ねながら病因を突き止めていく研究者たちの長い道のりを俯瞰するには,むしろこの簡潔さが効いている.結核も梅毒も破傷風も,いまだ歴史の過去形にはなっていないという冷厳な事実が,細菌と人類の終わりなき攻防を示している.第二次世界大戦期にペニシリンが実用化された際,人類は初めて細菌に対する決定打を手にしたかのような高揚を経験したが,その勝利は束の間であった.抗生物質に耐性を獲得する細菌の出現は,進化が人為的圧力に応答することを示す,ある意味で教科書的な事例である.
βラクタマーゼによる薬剤分解や細胞膜構造の変化といったメカニズムは,「敵」が受動的存在ではないことを物語っている.科学史の光だけでなく影にも目を向けている.パストゥールが偉大な研究者であると同時に,名誉心と排他性を併せ持った人物であったエピソードは,英雄像を相対化する.さらに,黒人専用病院における梅毒自然経過観察,囚人への淋病接種といった,今日では到底容認されない人体実験の史実も記されている.疫学が人類の健康を守る学問として成立する過程が,倫理的犠牲の上に築かれてきたことを,本書は隠そうとしない.
++++++++++++++++++++++++++++++
Title: DES BACTERIES ET DES HOMMES
Author: Willy Hansen,Jean Freney
ISBN: 412205074X
© 2008 中央公論新社
