| 芸術とは,「美」を通した,自分と他者とのコミュニケーションである.そんな持論を持つ新鋭の日本画家が,ファンとの素朴な疑問を,明快に一刀両断.ピカソのどこが魅力的なの?いままでの絶対絶命のピンチは?画家って,果たして儲かるの?子どもを感性豊かな人間に育てるにはどうすればいいの?芸術の神髄を日々の生活に生かしたい人の必読書!いま,芸術の真の姿が浮かび上がる――. |
ロシア革命と第一次世界大戦という激動の時代の只中で,重度のリウマチに冒され,指に包帯を巻き,車椅子に座りながらも描くことをやめなかった画家――ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir).その絵画に満ちる穏やかで無邪気な微笑みは,しばしば「幸福の賛歌」と語られてきた.しかし著者は,あるときその絵が真摯なイマジネーションを放つものではないことに気づく.そこにあるのは,平穏そのものを祝福するかのような静寂の波動であり,見る者の感情を高揚させるのではなく,そっと鎮める力であった.
ルノワールは印象派の中でもとりわけ保守的な画家であった.キュビスムへと突き進んだジョルジュ・ブラック(Georges Braque)やパブロ・ピカソ(Pablo Picasso)とは対照的に,革命や戦争が価値観を根底から揺さぶる時代にあって,前衛ではなく古典主義としての芸術を選び取った態度といえる.その姿勢を著者は,人間の精神を回復させる力として読み取る.本書の出発点にあるルノワール論は,著者自身の芸術観を照らし出す重要なプリズムである.本書は,朝日新聞の読者投稿欄という公共の場を媒介に,寄せられた質問に応答してきた記録をまとめたものである.一方通行になりがちな芸術論を,日常の疑問から芸術の核心へと分け入っていく,双方向的なコミュニケーションの集積である.
芸術作品は,それが絵画であっても料理でも,それを受け取る皆さんに向かって発せられた問いかけなのです…中略…すぐれた問い掛けはそれ自体が一つの回答である,という言い方もできるでしょうね
イマジネーションを伝達するチャンネルは,美術館や画廊に限られず,新聞の片隅や日々の生活の中にも潜んでいるという認識が,全体を貫いている.著者がしばしば用いる「芸術的思考」とは,特別な才能を持つ者の特権ではない.ありふれた質問や,哲学的で抽象的に見える問いに対しても,誠実に,しかも平易な言葉で答えていく.何かを一流の水準にまで押し上げるためには,第一線の現場で挑み続ける覚悟が不可欠だという現実的な認識である.同時に,高い評価や成功に決して驕らず,芸術観と人生観が分かちがたく結びついていることが,繊細な文章の行間から静かに示唆される.
著者は,日本画という伝統的ジャンルに身を置きながら,ニューヨークを拠点に国際的な評価を獲得してきた画家である.ウォーターフォール(滝)シリーズに代表される作品は,きわめて静謐でありながら,強度の高い空間意識を内包している.本書の文体もまた,それと呼応するかのように,感情を煽らず,しかし確かな誠実さをもって読者に語りかける.絵筆によらない,もう一つの「芸術」表現がここにある.ルノワールの静かな絵画がそうであったように,本書もまた,日常に小さな秩序と平衡を取り戻すために存在している.
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原題: ルノワールは無邪気に微笑む―芸術的発想のすすめ
著者: 千住博
ISBN: 4022731079
© 2006 朝日新聞出版
