| 妻に先立たれ,岩手に住む父親の悩みは,東京に住む末っ子・哲夫のことだ.定職もなくアルバイトで気ままに暮らす息子をたしなめる父,そして反発する息子――そんな哲夫も下町の工場で働くうち,可憐なろうあ者の娘に激しい恋をする.愛する人のために働く喜びを見出した哲夫は,父親を愛している自分にも気づき…. |
父子の葛藤と和解を描く静謐な家族劇である.だが本質的には,戦後日本が辛うじて維持してきた世代的再生産が,経済構造の変容によって瓦解し始める転換点を描いている.「家族」(1970)が高度経済成長を背景に,地方から辺境へと移動する一家の希望を伴った流転を描いたのに対し,本作が映すのは,移動がもはや上昇を意味しなくなった時代である.哲夫は東京にいながら正規雇用にも家庭形成にも踏み出せず,アルバイトを転々とする.停滞は個人の資質の問題ではない.バブル期特有の選択肢は溢れているが,いずれも持続しない労働市場の歪みである.
父を演じる三國連太郎が体現するのは,戦後日本の典型的な労働者倫理である.零細企業に身を置き,老いを引き受け,息子には説教をせずにいられない.説教癖は不安の発露である.地方と都市の格差が拡大しつつも,まだ「努力すればなんとかなる」という幻想が完全には崩れていなかった時代,親は子に将来を託すことで自らを納得させることができた.兄が東京で家庭と職を維持するために払っている犠牲を,哲夫は想像できない.断絶の萌芽に,山田洋次の視線は注がれている.哲夫にとって,老いていく労働者の嘆きは雑音でしかなかった.父が哲夫の聾唖の恋人との結婚を知ったとき,ほとんど言葉を発さず,その意思を尊重する.
「こいつがいないと俺死んじゃうし」という哲夫の幼い断言は,彼が初めて自分以外の人生を引き受けようとする表明に他ならない.父が手にするファクシミリは解りやすい小道具.1991年当時,FAXは家庭用通信機器としてようやく普及し始め,つながっている感覚を手助けするものであった.息子と恋人が選んだその機械を抱え,父は岩手の寒村へ帰る.囲炉裏で独り火を熾す背中に重なるのは,暖かな都市生活の幻影.それがすぐに消える演出は,家族の断絶が子の繁栄と引き換えに成立してきた戦後日本の幸福構造を,残酷なまでに示している.本作が厳しいのは,この構造が成立するためには親が自らの老いと貧困を引き受ける覚悟を必要とする事実を,情緒として描いている点である.
親が子の成長を実感するのは,社会的成功によってではなく,子が他者と重要で親密な関係を結ぶ瞬間においてである.老いた者が若者の前に居座らぬよう身を処すという倫理は,雇用と成長が連動していた時代には辛うじて機能した.だが若者の雇用と生活設計が恒常的に不安定化した現在,この倫理はもはや成立しない.親は身を引くことができず,わが子を守るために他人の若者と雇用を奪い合う共食いの構図が生まれる.本作から30年以上が経過した今,山田洋次はもう同じ物語を描けないはずだ.本作に残っていた牧歌的な気配,ささやかな人情,還流先としての地方社会は,経済的にも文化的にも著しく摩耗した.社会活力の長期低下が懸念される局面では,懐古主義は慰撫では済まされず,アナクロニズムとほとんど同一平面に接近する.
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原題: 息子
監督: 山田洋次
121分/日本/1991年
© 1991 松竹
