| 1952年の線文字Bの解読成功は,古代史研究に画期的な進歩をもたらす大事件だった.クレタ島出土の粘土板に誌されたこの文字は,エヴァンズによる発見から半世紀の後,ついにマイクル・ヴェントリスの手で読み解かれたのである.本書ではその共同研究者チャドウィックが,夭折した天才ヴェントリスを主人公に,解読の経過をつぶさに追い,また解読を通じてうかがわれたミュケナイ世界の姿を描き出す――. |
失われていた古代ギリシア語が,3000年以上の沈黙の後に甦る.ミケーネ文明で使用された最古の例は紀元前1450年頃に遡る.ギリシア語アルファベットより数世紀古く,人類が知る限り最古のギリシア語の記録である.線文字Bの体系は,未解読の線文字A,おそらくミノア語の表記を改変したもので,後のキプロス音節文字と同様,エーゲ海世界で連綿と続いた音節文字文化の一環をなすという.クノッソス,キドニア,ピュロス,テーベ,ミケーネといった主要宮殿で粘土板が大量に出土し,その使用は行政文脈にほぼ限定されていた.
ピュロスでは45人,クノッソスでは66人の筆写者の筆跡が識別される事実は,ミケーネ国家が高度に官僚化され,記録管理が厳格に行われていたことを窺わせる.表意文字――商品名を示す記号――が100種以上もあることで,これらが音価を持たず単語表記には使われなかったという制約が,解読作業を困難にした.この難題を解き明かしたのが,建築家で独学の言語学者マイケル・ヴェントリス(Michael George Francis Ventris)であった.1952年に線文字Bをギリシア語と同定した背後には,アリス・コーバー(Alice Elizabeth Kober)の研究がある.コーバーは組織的な文法パターン分析のための三連カードシステムを構築し,音節文字の文法的変化を抽出した.
ヴェントリスはこのデータを基盤に,地名"ko-no-so"=クノッソス,"a-mi-ni-so"=アミニソスという暗号解読でいうクリブに目を付け,推論を積み上げていったのである.本書はこの過程をドラマ化せず,科学的思考の連鎖として記述する.真理が検証の体系から生まれる,まさに方法論的な強調である.ヴェントリスは,16歳で「線文字Bについての私見」を自費出版し,この文字はギリシア語ではないと主張していた.のちに自らその誤りを覆し,科学史における誤謬訂正のエピソードとして伝わっている.ヴェントリスは34歳で事故死し,解読から4年後に世を去った.解読が明らかにした事実の重みは計り知れない.
線文字Bがギリシア語であることが確定した瞬間,ギリシア語史は突如として数世紀遡り,ミケーネ文明が文字を使った高度な行政社会であったことが明瞭になった.しかし,後期青銅器時代の崩壊とともに宮殿は滅び,線文字Bは完全に消滅した.その後のギリシア暗黒時代には文字使用の証拠が失われ,紀元前8世紀のアルファベットの登場まで約400年もの空白が生まれたことになる.断絶の構造を本書は丁寧に,文字史を政治的・社会的崩壊と結びついた文化史として描き出す.ギリシア語文学の起源を直接見せてくれるわけではないが,線文字Bは,青銅器時代の声を現代に甦らせ,古代行政の手触りを復元する貴重な窓となっている.
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Title: DECIPHERMENT OF LINEAR B
Author: John Chadwick
ISBN: 4622050153
© 1997 みすず書房
