| 近松は多面体.様々な角度からのアプローチが可能である.本書では,美しい日本語を書いた一人の作家として近松をまず見てみようとする.底本は甲南女子大学所蔵六行本を用いるが,節章はすべて省き,改行などにより会話文・地の文・道行文など,視覚的にも識別できるようにする.頭注・解説付き.挿図を多用し理解の助けとする――. |
元禄期の町人社会が醸成しつつあった感情のリアリズムを,演劇という形式において初めて可視化した作品である.近松門左衛門の遺したもののうち,浄瑠璃は90余編,歌舞伎は30編を数えるが,町人の現実生活を描く世話物はわずか24編に過ぎない.にもかかわらず少数派こそが,浄瑠璃を歴史叙述中心の伝統芸能から,感情と倫理の葛藤を描く近代的ドラマへと転換させた.
竹本義太夫を中心に成立した時代浄瑠璃が軍記や王朝物語を文語調で語る様式に拠っていたのに対し,世話浄瑠璃は町人社会を舞台として口語的表現により日常の感情を前景化したのである.本書はその到達点であり,1703年4月の「お初・徳兵衛心中事件」をわずか一ヶ月後に大坂・竹本座で上演した迅速さは,今日のルポルタージュ手法に比せられよう.事件の新奇性が観客を吸引したことは疑いえないが,猟奇や扇情に堕しなかった点にこそ,作劇力が輝く.
近松は「傾城仏の原」「傾城壬生大念仏」など,歌舞伎作劇を通じて世話物的感性を既に涵養していた.曾根崎心中は,町人世界への視線を漸進的に深化させた営為の集大成だったのである.その成功は劇的だった.近松は京から大坂へ移座し,竹本座の座付作者として迎えられ,以後,心中物は浄瑠璃の枠を超えて歌舞伎や歌謡にまで波及し,都市文化の一大潮流を成した.作品の本質は,激烈に燃え上がる情と,これを抑圧する理の相克である.
相続制度の冷酷さ,商人的信用たる為替金の封印,侍屋敷への納金を遊女身請けに転流する徳兵衛の選択――これらは恋愛悲劇の枠を超えて,町人社会の倫理体系の内的矛盾を露呈させる.為替金という商人的理性が否定される必然性の中に,町人階級が自らの存在基盤と相容れぬ情動を抱えていた事実が刻み込まれている.観客たちは悲劇を求めながらも,自らと同じ社会に生きる市井人の生を舞台に認め,涙したのである.
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原題: 新注絵入 曾根崎心中
著者: 近松門左衛門
ISBN: 4870888947
© 1998 和泉書院
