1964年ミシシッピー州の小さな町で3人の公民権運動家が姿を消した.徹底した人種差別のはびこる南部の町で捜査に乗り出すFBI捜査官,司法省からきたウォードとたたき上げのアンダーソン.彼らが事件の核心に迫るほど,焼き討ち,リンチ,殺人が続発する.ピンチをくぐり抜け,2人は真相に迫るのだが…. |
合衆国20番目の州となったミシシッピ州は,黒人人口率が州では最高の36.3%.田舎町フィラデルフィアを擁するこの地域を,マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr.)は「最悪の土地」と評した.黒人は,有色人種専用の水飲み場で水を飲むことが「常態化」していることを冒頭に映し出す.設定の1964年は,華々しい風貌とキャリアの大統領が暗殺された翌年.また黒人選挙権妨害の排除を盛り込んだ公民権法が制定され,世相への懐疑を原動力とする革新が保守を凌駕する潮流が渦巻いた年である.さらに6月21日,SNCC(学生非暴力協力委員会)など2人のユダヤ系学生と黒人学生1人が,郡の保安官,保安官代理を含めるKKKのリンチにより虐殺された事件が起きたことも忘れられていない.
米国南部の人種分離政策と人種差別の様相を,アラン・パーカー( Alan William Parker)は抑制とエキセントリックを使い分けて描く.キャリアとノンキャリアの2人の捜査官ジーン・ハックマン(Gene Hackman),ウィレム・デフォー(Willem Dafoe)の掛け合いは,シリアスで映画の節を作っている.ただし,本作では事実の脚色として黒人対白人の構図よりも,黒人の権利推進派と否定派――立場の異なる「白人」間――の対立に力点が置かれた.それにより,本作で見せるFBIの捜査官とKKKの衝突の陰に,公民権運動の当事者であるはずの黒人勢力は配置されたという印象である.本作の意義は,ミシシッピ州地方都市における一般市民の底冷えするような根深い「差別」「偏見」の眼差しを,執拗に登場させたことにある.
黒人に対する社会的評価(レッテル)は,敵意と警戒,侮蔑の入り混じった複雑なものである.創世記9章27節を引いて「人種差別は聖書にある」と解釈,公教育で主張されていた時代の異常性,しかし違和を感じることのできた人々が,因習の中でどれほどいたというのだろうか.差別を固定化する偏見意識には,決定的に「共感の排除」という性質がある.公民権運動家の失踪(殺人)事件で1967年,18人の男性が容疑者として裁判にかけられたが,殆どの者は釈放.7人は市民権違反でわずか6年の実刑判決となった.事件の首謀者エドガー・レイ・キレン(Edgar Ray Killen)は,プロテスタント・バプテスト派の伝道師という理由で有罪判決を免れていた.
1999年に捜査が再開され,事件から41年後の2005年1月,ミシシッピ地裁陪審は3人の被害者1人につき20年=計60年の実刑をレイ・キレンに言い渡している.年齢を考えるならば,実質的な終身刑となる.裁きは遅きに失したのか,あるいは間に合ったのか――その判断は容易ではない.ディープ・サウス“ミシシッピ”の変容があったとすれば,"NOT FORGOTTEN"(忘れまじ)の銘が刻まれた墓碑と,黒人を中心とするコミュニティの賛美歌に託される大志である.それは共感を手繰り寄せるステップが,小刻みでも進展していればという希望である.必ずしも史実に即していなくとも,次世代へと受け渡すメッセージは,重要な提起を含んでいる.
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原題: MISSISSIPPI BURNING
監督: アラン・パーカー
126分/アメリカ/1988年
© 1988 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc