▼『イワンの戦争』キャサリン・メリデール

イワンの戦争:赤軍兵士の記録1939-45

 ナチ・ドイツに勝利した,赤軍の「神話」の裏に潜む,悪夢のような実態とは?三千万人の兵士の物語.手紙,日記,回想,退役軍人への聴き取り取材によって肉声を再現し,「戦争の真実」を暴いた画期的な労作.年表,写真多数収録――.

 二次世界大戦中のソ連軍兵士の生活を痛切に描いた本書は,軍事戦略や政治的策略よりも,"イワン"と総称される赤軍兵たちの個人的体験に焦点を当て,独ソ戦を中心に多くの証言を得ながらまとめている.主観的なナラティヴは,1941年のナチスドイツによるバルバロッサ作戦から,レニングラードスターリングラードといった都市の悲惨な包囲,最終的なベルリンへの進攻など,戦争の主要な局面を時系列に沿って描きつつ,東部戦線の非人間性を物語るものだ.本書は,従軍兵士の手紙や日記,生き残った退役軍人のインタビューを通じて,個人的な逸話をより広範な歴史的分析に結びつけている.これにより,兵士たちが直面した残酷な現実だけでなく,ソ連兵が耐えた過酷な状況――厳しい寒さや飢え,絶え間ない死の恐怖――日々の苦闘を描写している.

兵士は多種多様だった.一人ひとり違うイワンがいた.しかし,願いは一つだった.独裁を倒すために戦った揚げ句に,それを上回る独裁が残る結果は本意ではなかった.スターリン主義の台頭を認め,体制を守るために自ら戦い,辛酸をくぐり抜けた人々が,戦後も暴君の君臨を容認した.不幸なことだ.祖国は隷属を免れたが,自らを奴隷化したのだった

 本書は,赤軍に対する政治的教化とスターリン主義イデオロギーの広範な影響についても複雑な理解を示している.イデオロギーは,兵士たちの士気と精神に大きな打撃を与えたが,しばしばプロパガンダによって強化されたソ連大義に対する信念が,彼らの持久力と最終的な勝利に決定的な役割を果たした.また,ソ連軍がドイツに進攻する際に行った残虐行為とその心理的影響についても探求しており,多くの兵士が戦争が終わった後もその体験に悩まされ続けたことが明らかになる.ソ連兵の体験の本質をとらえることに成功し,東部戦線の人間的側面に光を当てた本書は,戦った人々の記憶を称えるだけでなく,戦時下のソ連を批判的に検証する."イワン"は「近代で最も苛烈な体制の犠牲者」とされ,ドイツに攻め込まれながら祖国を守るために死闘を繰り広げた.

 赤軍兵たちは何を見て,何を得たのか.その背景には1918年の革命から21年間,共産主義国として歩んできたソ連がドイツファシズムに対峙するという歴史がある.資本主義は罪悪だと教えられてきたソ連兵たちは,初めて見るポーランドの豊かさに驚愕し,その生活との違いにショックを受けた.捕虜となり解放された元兵士たちは,祖国に戻るとスパイとして処刑されるか収容所送りとなり,強制労働に連行された.ヨシフ・スターリン(Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин)は「自発的無償労働」を強制し,過酷な生活を兵士たちに強いたのである.赤軍兵士は,多様な民族と文化的背景を持つ集合体であり,その経験と価値観も多岐にわたっていた.彼らは資本主義国への侵攻から始まり,同じ言葉を話す人々への共感,豪華な都市生活への怒りや妬みを肥大させていった.これが復讐感情となり,東プロイセンで暴発する.

多くの英雄的行為を目撃したのは事実だ.でも,赤軍の恥辱も数多く目にした.残虐行為すれすれの無慈悲な仕業が自分にできるとは,考えてもみなかった.自分は善良な人間だと思ってきた.だけど,こんなときにならないと頭をもたげない性質を,人間は奥深くに長い間隠し持っているものなのだ

 中央のプロパガンダは,ソ連が被害者であるという思考と行動を強調し,戦後の保障を求める権利を訴えた.独ソ戦ナチスにとって殲滅戦であり,ソ連市民(ボルシェビキ)を殺戮するのが目的であった.ソ連兵は戦死するまでの平均期間が3週間と短く,部隊を離脱する兵士も多かった.ソ連は2,700万人の死者を出し,そのうち800万人が兵士であった.戦闘後には略奪や暴行が頻繁に行われ,戦後も多くの兵士がその狂気の残滓に苦しみ続けた.本書は,年老いたソ連兵のインタビューを通じて,彼らが勝利を語りつつも,自らの行った惨劇については沈黙を保つ様子を記録している.彼らも普通の人間であり,目が覚めると自分の狂気を恥じた.スターリン政権の宣伝は赤軍内で万全ではなく,兵士の心を捉えていたのは忠誠心ではなく,独軍の砲撃への恐怖心であった.本書は,限られた事実から組み立てられた推論が異様なまでの説得力を持ち,長い間抑圧され陰に隠れていた人々の情念や怨念を文字に表している.

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Title: IVAN’S WAR - THE RED ARMY 1939-45

Author: Catherine Merridale

ISBN: 9784560097700

© 2020 白水社

▼『化石の記憶』矢島道子

化石の記憶: 古生物学の歴史をさかのぼる (Natural History)

 化石とはなにか――それぞれの時代を生きた人々が化石をどのように認識していたのかを丹念に跡づける.進化論のダーウィン,弄石家の木内石亭,天才レオナルド・ダ・ヴィンチ,そして哲学者アリストテレス……現代から古代まで,時代をさかのぼりながら,化石をめぐる物語を読み解こう――――.

 今東西の自然史家,博物学者を網羅的に紹介する本書は,日本では珍しい古生物学史書.生物起源である化石の本質は,前7世紀ころのギリシアの学者らがすでに看破していた.レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)や朱熹の研究を経て,地層の層序や岩相をもとに堆積環境や地史を明らかにする層位学の確立まで,化石を直接対象として地質時代の生物現象を研究する科学の歴史は古い.

 日本地質学会理事,地質学史懇話会「会報」の編集長を務める著者は,貝形類(介形類)としてのカイミジンコの化石の研究から,古生物学史を志したという.本書は化石の定義に始まり,19世紀「近代的化石観のなかで」,18世紀「自然の遊び・自然の冗談」,16-17世紀「時を超えた天才」,16世紀「混沌と黎明」,中世と古代「すべての始まり」と年代を遡って地球史に位置づく古生物史を計る.

 出色は,18世紀ドイツで起きた化石贋作事件「ベリンガー事件」を詳しく取り上げていることだ.ビュルツブルク大学の教授ヨハン・ベリンガー(Johann Bartholomew Adam Beringer)を陥れるため,同僚教授と図書館司書は,石灰岩を細工してトカゲやカエル,ハチ,カタツムリ,尾を引く彗星,三日月や顔のある太陽,ヤハウェを表す「YHWH」をラテン文字アラビア文字ヘブライ文字で刻んだ化石を偽造し,ベリンガーの手で発見されるように仕向けた.

 神秘的な力で化石は形成される説(造形力説)を信じていたベリンガーは,疑いもなくこの「大発見」を21点の図版『リトグラフィエ・ヴィルセブルゲンシス』として1726年公表した.自分の名前が掘りつけられた化石を発見して,ようやく騙されたことに気づく.地質学への奉仕という応用面から出発した古生物学は,18世紀以降の博物学の発展と並行して進められたが,科学論理と法則性が樹立される百家争鳴以前に,多くの壁が立ちはだかっていたことが知れる.

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原題: 化石の記憶―古生物学の歴史をさかのぼる

著者: 矢島道子

ISBN: 9784130607513

© 2008 東京大学出版会

▼『くれない』佐多稲子

くれない(新潮文庫)

 プロレタリア運動に参加する作者自身の生活に起った,運動の解体や,夫の入獄と転向,といった事件に取材.仕事を持つ妻とその夫とが当面する問題を,深く追究したもので,互いに愛情と理解をもち新生活の建設に努めているはずの夫婦が,なお家庭生活にまつわる因襲や習慣に,矛盾した深い苦悩をなめねばならず,家庭崩壊の寸前にまで陥る経緯を,妻たる明子の立場から描いた力作――.

 多稲子の文学作品は,個人的経験と社会の諸問題の複雑な交差点に位置している.戦前の共産党入党と戦後の離党は,彼女の思想とその成熟の一端を明らかにしている.本作は,極貧の中で生きる人々の内面を描いたプロレタリア文学の伝統とは一線を画し,むしろ彼女自身の結婚生活や離婚の体験を反映している.

 窪川鶴次郎との結婚生活は,佐多にとって個人的な苦悩と闘いの場であった.彼女は,プロレタリア文学の理想と日常生活の現実との間で板挟みになり,結婚生活の中で矛盾や対立が露呈することになった.窪川からの文学的な示唆が,佐多の文学的声価を形成する一因であったと言える.

 妻である佐多が文学的声価を最初に得たことが,後に夫婦の関係に火種を生じさせた.この過程で,佐多は共産主義イデオロギーと個人的な生活感情を混同することなく,自らの文学的な表現を追求した.日本プロレタリア作家同盟婦人委員としての活動は,社会的な問題に対する熱い関心を持っていたことを示している.

わたしたちはこの十年間をお互いに好く暮らして來たとおもふのよ.二人ともここまで成長したといふことはさう言へるでせう.勿論二人の努力であつたとおもふわ.それはずゐ分ひどい努力だつたとおもふの.それがね,ここまで來たとき,二人が一緒に暮らしてゆけない矛盾をつくつてゐたんだとおもふと,そのことでは,私の詰まつてゐる気持ちは,どうにも抜け様がないの

 佐多は,婦人民主クラブの創設に携わり,長年にわたってその活動を支え,委員長を務めた.社会活動は,個人の内面と社会の複雑な相互作用を反映しており,彼女の人生と文学の一貫した軌跡を描き出している.家庭崩壊に陥る夫婦の生活感情を共産主義イデオロギーに結びつけて読むことに,さほど意味はないだろう.

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原題: くれない

著者: 佐多稲子

ISBN: 4101082014

© 1952 新潮社

■「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」ジョン・キャメロン・ミッチェル

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]

 全米各地を旅して巡る売れないロック・シンガー,ヘドウィグ.共産主義体制下の東ドイツで男の子ハンセルとして生まれたものの,憧れの国アメリカに渡る際,米兵の男性と結婚するため性転換手術を受け,その不手際で「怒りの1インチ」が股間に残ってしまった彼女.渡米した途端その男性にも去られてしまったヘドウィグは,ロック・スターになる夢を思い起こし,韓国軍兵士の妻たちとバンドを結成する….

 ラトン(Plato)『饗宴』におけるアリストパネス(Aristophanes)の譬話「愛の起源」.両性具有のアンドロギュノスが神の逆鱗に触れ「分割」,相互の求めがエロス(愛)となり,エロスは人間本来の姿に戻ろうとする抜きがたい衝動となったという.不完全なものが完全なものへの憧憬と追求を図り,失われた本来の完全性を復活させるため,互いに短所を補う相手を求め合う.その寓意は不完全な現状を全きものにするためには,理想追求の努力が必要である,と考える点にある.

 オフ・ブロードウェイの大ヒットミュージカルを基に,本作は映画化された.マドンナ(Madonna)は楽曲の権利使用を申し入れ,デヴィッド・ボウイDavid Bowie)はグラミー賞よりもミュージカル観劇を優先したとされる.“怒りの1インチ”のロック・シンガー,ヘドウィグは,愛の賛歌の嘆きを叫ぶ."missing half"となった人間を否定すれば,自分のような異端者は破滅するしかない.その抵抗のアイデンティティを,監督・脚本・主演のジョン・キャメロン・ミッチェル(John Cameron Mitchell)が裂帛の気合で魅せる.

 製作会社キラー・フィルムズは,キャメロン・ミッチェルの気骨を尊重し,剥き出しの感情を崇高な魂の発露と見せることに成功している.このことは,『饗宴』第2部でなされるディオティマのエロスの下部構造と上位構造,それらを踏まえた人間の心的帰一による完成を彷彿とさせるだろう.半身を追い求めるその彷徨は,精神のオーガズムを迎えることへの希求.透徹した審美眼を磨き,高尚な魂のさらなる向上に全霊をあげるということである.

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原題: HEDWIG AND THE ANGRY INCH

監督: ジョン・キャメロン・ミッチェル

92分/アメリカ/2001年

© 2001 New Line Cinema

▼『若き日の思い出』武者小路実篤

若き日の思い出 (新潮文庫 む 1-11)

 幼い時に父を失い,母の手一つで育てられた野島厚行は,療養のためK海岸へ赴く.そこで出会ったのは,学生時代の友人・宮津とその妹の正子であった.内向的な野島と違い,宮津は快活で頭脳明晰,その上,財力にも恵まれていた.正子を一目見かけてから好意を抱く野島だが――.

 ルストイニズムに影響を受けた後,武者小路実篤は東洋的楽天思想に基づき人間の善性を追求し,その過程で清風のような明るさを創作に吹き込むことに成功した.軍国主義が台頭する時代にあっても,人間性の尊さを信じ続けた姿勢は,自伝的要素を反映しながら登場人物の無垢を徹底して描写した点に表れている.武者小路自身が「一番多くの人に愛読されていい」と考えていたこの作品は,予定調和的な展開が続くため,驚きや緊張感に乏しい.

人生と言うものは実際,無尽蔵の宝庫のようなものです.どの宝庫に入っても,宝がありすぎるのです.その宝に夢中になりすぎて自分の生命の事を忘れてしまうのです.その宝は自分をよく生かすために必要なので,それ以外の宝には目もくれないという覚悟が大事なのですが,私達はつい宝ものに目がくらんで,自分の一生と言うことは考えないのです

 もともと『母の面影』という題で陸輸新報に連載されており,戦中戦後を通して全103回にわたり掲載されたものが本書の基盤となっている.連載が始まった時,武者小路は還暦を過ぎていたという事実に驚きを禁じ得ない.作品全体に漂う生命力と爽やかさから「老い」を感じることができないからである.武者小路の創作活動は,その年齢に関わらず若々しさとエネルギーに満ち溢れていた.

 筆致は,年齢を超越した人間の善性と純愛を描き出しており,その点において時代や読者層を超えて広く愛される理由が見出せる.トルストイの影響を受けながらも,東洋的な楽天思想を取り入れることで独自の作風を築き上げ,まさに清風のような存在感を持つ作家として文学史に刻まれている.時代背景や個人的経験を超えた普遍的なメッセージを含みつつ,作品が持つ無垢さと明るさは,読者にとって心の清涼剤となり,そのメッセージは今なお褪せることはないだろう.

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原題: 若き日の思い出

著者: 武者小路実篤

ISBN: 4101057117

© 1957 新潮社