▼『歌舞伎町の住人たち』李小牧

歌舞伎町の住人たち

 ヤクザ,ホスト王,ストリッパー,ホームレス……歌舞伎町を象徴する人々18人の本音を通し,これまで誰も描き得なかった不夜城の相貌が浮き彫りに!歌舞伎町の生の声が迸る驚愕のノンフィクション――.

 ジア最大の歓楽街として語られてきた歌舞伎町だが,その実像は通俗的イメージをはるかに超える複雑さを持つ.自己規律と相互監視,奇妙な連帯によってかろうじて均衡を保つ都市空間である.著者は中国湖南省出身で,日本語・北京語・広東語・湖南語を操る.「歌舞伎町案内人」としての活動は,異文化と危険地帯を仲介する翻訳者の役割に近い.言語のみならず価値観,掟,沈黙の意味まで翻訳できる者だけが,この街を描き得る.

 統計的に言えば,歌舞伎町は新宿区全体のわずか2%の面積に過ぎない.しかし3000軒を超える飲食店,バー,クラブ,ラブホテルが集中している.かつて凶悪事件の発生率が東京都平均の約196倍と喧伝されたが,2000年代後半以降,警察による集中的な取締りと監視の強化により,その数字は実態の指標としての有効性を失いつつある.今や街路やビル内の防犯カメラは50台どころではなく,民間分も含めれば桁違いの監視空間と化している.歌舞伎町は無秩序の象徴から,過剰に管理された歓楽街へと変貌したのである.

 転機は東急歌舞伎町タワーの開業だった.クリーンで観光的な歌舞伎町という新イメージを発信している.だが排除の対象は今も存続する.路上飲み,客引き,"トー横"と呼ばれる若者の滞留――こうした事象は,再開発の波の中でも消えない.本書が描いた歌舞伎町は再開発以前の姿だが,むしろ現在を照らす補助線として,いっそう深い意味を帯びる.著者が一年をかけてインタビューした18人の住人は,一般的な道徳や法秩序の外縁に位置しながら,独自の倫理と誇りを持つ.

 成功と没落,忠誠と裏切りが通常社会よりもはるかに高速で循環する点で,歌舞伎町は現代社会の「実験場」として機能してきたのだ.歌舞伎町は確実に変わった.しかし変わったがゆえに,本書が記録した「住人たち」の声はいっそう貴重である.ネオンの下で欲望が組織され,管理され,時に排除されるこの街は,今なお日本社会の濃縮された影である.本書は,その影を覗き込むための信頼できる内部証言の一つなのだ.

歌舞伎町の住人たち

歌舞伎町の住人たち

Amazon

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: 歌舞伎町の住人たち

著者: 李小牧

ISBN: 4309017282

© 2005 河出書房新社

▼『ミザリー』スティーヴン・キング

ミザリー (文春文庫 キ 2-33)

 雪道の自動車事故で半身不随になった流行作家のポール・シェルダン.元看護師の愛読者,アニーに助けられて一安心と思いきや,彼女に監禁され,自分ひとりのために作品を書けと脅迫される.キング自身の体験に根ざす“ファン心理の恐ろしさ”を極限まで追求した傑作――.

 故で重傷を負った作家ポール・シェルダンが,元看護師にして熱狂的な読者アニー・ウィルクスに監禁され,ファンの歓喜と興奮が拘束へと転倒する.読者が作品世界に対して抱く所有欲が,作家という生身の存在へと向かう.アニーはシェルダンの筆を握ろうとし,作品世界を支配対象に変えた.それは,創作行為が個人に奉仕すべきものという倒錯であった.スティーヴン・キング(Stephen King)は,この小説を"リチャード・バックマン"名義で発表しようとしていた.

 別名義は,もう一つの作家人格を意味していたが,それが暴かれたことで,本書はキング本人の胎内へ回収される.作品中の「ミザリー・シリーズ」によって括られたシェルダンの苦悩は,キング自身が『ドラゴンの眼』でファンタジーへ転調した際,読者の拒絶に遭った経験を踏まえている.またキングは薬物・アルコール依存を克服する時期に本書を執筆している.ポールはアニーの要求に従い,創作を通じて状況を逆転させる.千夜一夜物語のシェヘラザードのように物語で生存時間を延命し,書くことが救済手段――執筆行為が主人公の生存戦略として転位し,物語は創作の贖いへと収束するのだ.

 キングは大西洋横断便の機内で見た夢から着想し,アメリカン航空のカクテルナプキンに夢の内容をメモしたという.ロンドンの老舗ホテル「ブラウンズ」で執筆を開始した際,かつてラドヤード・キップリング(Rudyard Kipling)が脳卒中で倒れた机をホテルが用意してくれた.キングは当初,アニーがポールの皮膚で本を装丁させるという猟奇的な結末を検討していたが,最終的にはポールの「創造力の反撃」へと着地させた.残虐の快楽ではなく,創作の倫理を選んだ点こそ評価すべきであろう.

 作家とは誰に奉仕し,作品は読者の所有物になるのだろうか.ジャンルの期待に縛られること,ファンによってアイデンティティを規定されること,依存から抜け出せない作家の苦悶――全てがアニーの巨大な身体に凝縮されている.キングは自らの悪夢を文学形象に還元し,350ページを超える物語へと膨張させた.本書は,ホラーの皮をかぶった作家論であり,フェティッシュ化された読者愛への冷徹な診断である.恐怖とは,作品を所有し,作者を消費しようとする読者の欲望であるならば,作家にとって,それこそ最も日常的な怪物である.

++++++++++++++++++++++++++++++

Title: MISERY

Author: Stephen King

ISBN: 4167705656

© 2008 文藝春秋

■「ゴーン・ガール」デヴィッド・フィンチャー

ゴーン・ガール [Blu-ray]

 結婚5周年を迎え幸せな結婚生活を送っていたニックは,妻エイミーの姿が忽然と消えたことに気付く.自宅には争ったような跡と大量の血痕が残されており,警察は他殺と失踪の両面で捜査を開始.やがてニック自身にも疑惑の目が向けられると,事件はマスコミの注目を集めてゆく.私生活を暴かれ,無責任な世論やSNSで拡散する噂に追い詰められたニックは,弁護士を雇って対応を図るが….

 作のキャッチコピー「本当に大切なものはいつも失って初めてわかる」はナイーブ過ぎる.愚鈍なだけの夫に,妻の本性は永遠に解らず,妻も実はその理解を求めてはいない.『詩経』「凱風」詩の序には,「七人の子は生(な)すとも女に心許すな」とある.デヴィッド・フィンチャー(David Fincher)は,その観点から本作を読み解こうとする鑑賞者に寛容だが,それは彼が得意とする"舗装されたミスリーディング"への誘導.夫婦のディスコミュニケーション,夫の不義に対する妻の怒りと復讐,空虚な結婚生活への引導――すべて,計画的に身を隠したエイミーを「枠」にはめた理解であり,同情となる.

 良妻にみえた妻が異常であるなら,そのパラノイア的性質がどこから植え付けられたか.失踪初日に専用ダイヤルを引いた捜査本部を設置し,専用ウェブサイトを開設,ボランティアを組織して情報提供を募る.常軌を逸した行動力を見せたのは,エイミーの夫ではなく,愛娘の身を案じる実母だった.児童文学者であるこの母は,ベストセラー『アメージング・エイミー』の作者で,絵本の主人公エイミーはチェロの天才,バレーボールの代表にも選出されるなどマルチな才媛として描かれる.創作物のエイミーは,現実世界のエイミーに常に先んじる「お手本」であり,絶対的な模範.呪縛に苦しみ,「よい子」を求める母とそれを演じる自分を憎悪していた娘の心に巣食う闇を,母は気づかない.

 成長後のエイミーが手ごろな独身男ニックを誘惑し,結婚生活が危機に瀕するまでの5年間,その後の狂言.それらは,彼女の根底にある「母への怒り」がもたらす副産物に過ぎなかった.自分が失踪して身悶えするのは,夫ではなく母であることを,エイミーは誰よりも理解し,実践した.本作での"GONE"とは,失踪そのものを意味していない.母に食い物にされた自己イメージの再構築の途上としての「消失」である.夫の浮気を逆手に取り,手の込んだ復讐を遂げるとともに,自分が「母になる」.その本懐を果たすことは,偉大であり続けたエイミー(アメージング・エイミー)を,手づから超越することである.

 母が娘エイミーを「製作」したように――そのための「作品」が,彼女には真に必要であることをある時点で悟ったのだ.「搾取し,搾取される,それが結婚よ」.高らかに宣言する妻に呆然として従う夫ニックには,ベン・アフレック(Ben Affleck).エイミー役には,リース・ウィザースプーン(Reese Witherspoon)本人が熱望したが,フィンチャーに説得されウィザースプーンは製作側に回ることになった.シャーリーズ・セロン(Charlize Theron)やナタリー・ポートマン(Natalie Portman)も興味を示したというが,多面的な印象を人に与えるエイミー役に適任だとフィンチャーに確信させたのは,無機質な美しさを誇るロザムンド・パイク(Rosamund Pike)である.

ゴーン・ガール [Blu-ray]

ゴーン・ガール [Blu-ray]

  • ベン・アフレック
Amazon

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: GONE GIRL

監督: デヴィッド・フィンチャー

149分/アメリカ/2014年

© 2014 Twentieth Century Fox

▼『水の戦争』橋本淳司

水の戦争 (文春新書)

 AIデータセンター,半導体工場……日本各地でも急増するこれらの施設で膨大な水が消費されている.水資源の支配者が国家から企業へ移ることで生まれる,新たな不均衡や地政学的緊張――新しい「水の戦争」が始まっているのだ.私たちの生活と無関係ではないその現状をリポート――.

 Iサーバーの冷却に莫大な水が注ぎ込まれ,半導体製造の超純水需要は一工場あたり日に数万トンに達する.地下水の枯渇,河川の干上がり,生態系の崩壊――テクノロジー企業の膨張は,目に見えない形で地球上の水を支配していく.石油時代の企業体と変わらぬ権力構造である.2020年,CMEグループとNASDAQが水資源先物取引の開始を宣言した.

 基準となるNasdaq Veles California Water Index(NWCW)はカリフォルニア州の5大水市場の週次スポット価格を指標とし,1契約は10エーカー・フィート(約12,335立方メートル),市場規模は年間10億ドル.数字だけを見れば産業の合理化に見える.石油は代替エネルギーが存在し,穀物も他の食糧資源がある.しかし,生存に直結する水は代替できない.金融商品化は気候変動への適応策として正当化される.現実には,限定的な水資源を金銭によって配分する仕組みへの転換でしかない.

 紛争の背景に気候危機があり,危機の解決策として金融市場が提示される.食料やものづくり製品の輸入を通じて,日本は毎年莫大な仮想水を消費し,外国の水資源を,無自覚のうちに吸収し続けているのだ.さらに外資は日本の水源地周辺の土地を買い漁り,自治体はAIデータセンター誘致の名の下に地下水を提供し,水道事業の民営化によって水の管理権を手放しつつある.

 本書の中盤以降,味気ない文体に異質な浮遊感が生じる.「誰が未来を設計するのかという問い」「声の可視性」「沈黙を制度化する構造」――高度に抽象化されたフレーズは,生成AIが学習した文体――AIが生産するもっともらしい「無内容表現」――典型パターンである.水が国家管理から市場支配へ移行する過程の論考を締括るべき言葉が,逆に思考を停止させている.

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: 水の戦争

著者: 橋本淳司

ISBN: 4166615106

© 2025 文藝春秋

▼『騒音の歴史』マイク・ゴールドスミス

騒音の歴史

 騒音の発生源は増え続け,かつてないほど大きな問題になってきている.しかし騒音に関する対策本や技術書はあっても,「騒音」そのものに関する書籍はこれまでなかった.そもそも騒音とは何か?本書はそこからスタートする.本書では,音に関する科学技術の進歩と騒音問題との歴史的かかわりを追究し,やっかいな騒音問題をさまざまな視点から解説する――.

 類は「望ましくない音」といかに共存,抑圧,利用してきたのだろうか.古代ローマではすでに馬車の通行音が深刻な都市問題となり,ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)は夜間の荷馬車通行を禁じる法令――自治体に関するユリウス法――を出している.ノイズは文明の発展と不可分の副産物だったが,産業革命以降,ノイズは量的にも質的にも決定的に変化する.蒸気機関,工場,鉄道は,人類史上初めて「持続的で回避不能な大音量」を日常に持ち込んだ.

 19世紀ロンドンでは工場の騒音が都市の活力の象徴とされ,静寂はしばしば停滞や貧困と結びつけられた.医学的側面においても,本書は「うるさい=有害」という図式にとらわれない.著者は聴覚障害やストレス障害の研究史を辿りつつ,ノイズ被害が長らく過小評価されてきた事実を明らかにする.被害が即死や外傷のように可視化されにくい点がその一因だが,より本質的なのは政治的・経済的判断による許容であった.

 第二次世界大戦中,軍需工場での騒音性難聴は戦争遂行に不可避な犠牲として黙認され,補償対象となるまでに長い時間を要した.著者が繰返し強調するように,ノイズとは常に文脈依存的な判断により,意味を持たない音ではなく「意味を拒否された音」である.しかし本書は,ノイズが必ずしも抑圧すべき敵ではないことも示す.音楽史において,かつてノイズと見なされた音が表現の核心に転じた例は多い.

 20世紀初頭,未来派の作曲家ルイージ・ルッソロ(Luigi Russolo)は「騒音芸術宣言」を掲げ,機械音を音楽に取り込むことを主張した.今日のエレクトロニック・ミュージックやノイズ・ミュージックの源流が,当時の「不快音」にあったという指摘は,議論を文化論へと拡張するものだ.静寂を理想とする社会は本当に人間的か.それとも,一定のノイズを許容する社会こそが活力と多様性を保つのか.ノイズの歴史を辿ることは,どのような音を受け入れ,どのような音を拒絶してきたかの価値判断を探ることに等しいのだ.

++++++++++++++++++++++++++++++

Title: DISCORD - THE STORY OF NOISE

Author: Mike Goldsmith

ISBN: 4487808111

© 2015 東京書籍