■「ムーンライト」バリー・ジェンキンス

ムーンライト スタンダード・エディション [Blu-ray]

 名前はシャロン,あだ名はリトル.内気な性格で,学校では“オカマ”と呼ばれ,いじめっ子たちから標的にされる日々.その言葉の意味すらわからないシャロンにとって,同級生のケヴィンだけが唯一の友達だった.高校生になっても何も変わらない日常の中で,ある日の夜,月明かりが輝く浜辺で,シャロンとケヴィンは初めてお互いの心に触れることに….

 イアミで生き抜こうとする若い黒人男性の自我の葛藤を描いた詩的な映画だ.成長期に経験する内面の葛藤を見事に描写し,主人公のゲイとしての苦闘を三つの章で丹念に追いかける.この映画は,あらゆるものにレッテルを貼り,分類して理解しようとする文化に嫌気がさしている人々に新風を吹き込む.今やLGBTにQ――クィア:性別が当てはまらない――がつく時代,主人公シャロンは,自分がどのカテゴリーにも当てはまらないことに苦悩し,最良の選択肢と思われるカテゴリーに無理やり自分を当てはめようとする.彼の人生は,不安定な薬物中毒の母ポール,薬物ディーラーの代理父フアン,そして性的覚醒を共有する唯一の友人ケビンとの関係を通じて,孤立感の痛みと心理的な盾を背負うことで彩られる.映画は黒人のキャストで占められており,人種に焦点を当てず,ゲイの男性像を描く普遍的な孤独な人間として提示している.

 物語は,シャロンが「リトル」として地元の麻薬ディーラーであるフアンの世話になる少年から,ティーンエイジャーの「シャロン」として,そして自分の性的アイデンティティを受け入れ,自分の過去の重荷を抱えて生きる「成人男性」へと成長する過程を描写している.これらの成長過程は,母親ポーラとの関係,親友への恋,学校でのいじめによって反映される.マイアミを舞台にしたこの作品は,従来のイメージとは異なり,享楽的な街ではなく,主人公が困難に直面するたびに現れる微妙な海のイメージと組み合わされて効果的に表現される.監督バリー・ジェンキンス(Barry Jenkins)は,自身の幼少期にインスピレーションを受けた作品を通じて,マイアミの暗く美しい一面を描写している.映像にはテレンス・マリック(Terrence Malick)やリン・ラムジー(Lynne Ramsay)の影響があり,色彩の効果的な使用と美しい景観が作品に哀愁を与えている.

 本作は,深い瞑想の瞬間や感情的な場面を通じて,苦難の中でどう生きるかという問いを投げかける.一滴の涙や抱きしめられる水の中での場面,彼を裏切った友人への許しの眼差し,肉体的な快楽を掴む開かれた指など,深い暗示と慎重さを持って描写されている.その問いは,どこか聖性を帯びる.脚本家タレル・アルビン・マクレイニー(Tarell Alvin McCraney)と監督のビジョンは,二人とも薬物中毒に苦しんだ母親とともにマイアミの同じリバティーシティ地区で育ったという点で,非常に明確かつ特異なものだった.映画の約80%は,米国で最も貧困に苦しむ地域の1つで撮影された.当初,プロダクションは安全上の問題を懸念していたが,ジェンキンスが近所の出身であるという情報が広まり,地元の人々は歓迎的で協力的だった.ジェンキンスは,シャロンを演じる各キャラクターがそれぞれのセグメントで,他の描写から影響を受けることなく,主人公の独自のペルソナを構築することを望んでいた.

 脚本には当初,フアンがリトルに自転車の乗り方と水泳のやり方を教えようとする2つのシーンが含まれていたが,ジェンキンスは,後者の方がはるかに効果的であることに気づいた.「可能性を秘めた場所」としての水と海というテーマにも一致した.彼らは登場人物と一緒にカメラを水中に沈めておき,嵐が迫りくる短い時間のなかで,美しいシーケンスの1つを撮影した.撮影監督ジェームズ・ラクストン(James Laxton)によれば,本作の予算はわずか150万ドルしかなかった.ジェンキンスは,ロンドンのBFIでの質疑応答で,確かに低予算であることを認めた.これは「ロッキー」(1976)以降のどのアカデミー賞(作品賞)よりも低予算であった.しかし,予算がインフレに合わせて調整されているのであれば,本作はインフレに反して「作品賞」を受賞した作品とみることができるだろう.

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: MOONLIGHT

監督: バリー・ジェンキンズ

111分/アメリカ/2016年

© 2016 A24 Distribution, LLC

▼『沈黙の春』レイチェル・カーソン

沈黙の春 (新潮文庫)

 自然を忘れた現代人に魂のふるさとを思い起こさせる美しい声と,自然を破壊し人体を蝕む化学薬品の浸透,循環,蓄積を追究する冷徹な眼,そして,いま私たちは何をなすべきかを訴えるたくましい実行力.三つを備えた,自然保護と化学物質公害追及の先駆的な本がこれだ.ドイツ,アメリカなど多くの国の人々はこの声に耳を傾け,現実を変革してきた.日本人は何をしてきたか――.

 続可能な社会の実現には,環境汚染を自然の浄化能力が上回っていなければならない.エルンスト・ワイツゼッカー(Ernst Ulrich von Weizsacke)は1960年代を振り返って述べた.「1960年代には環境の世紀の到来を語った人は誰でも嘲笑された」.本書は,環境の世紀の到来を訴えた,レイチェル・カーソン(Rachel Carson)の最重要な著作である.

 1960年代当時,環境問題が議題にのぼることはほとんどなかったという.化学薬品の効用が注目を集め,人間の英知が害虫を鎮圧できると信じられた.その時代にあって,化学薬品が自然均衡のおそるべき破壊因子となることを告発したカーソンは,徹底した攻撃を受けた.本書が出版された1962年,科学業界と食品業界,それに農務省は彼女を「妄想的なヒステリー女」と嘲っている.カーソンの著作がこれらの業界と関係省庁を攻撃する内容を含んでいたということを意味するが,結果的に,ジョン・F・ケネディ大統領(John Fitzgerald Kennedy)は本書を元に,殺虫剤に関する特別報告書を求めた.そうして「先進的な殺虫剤」の功罪が明るみに出ることになったのである.

 『沈黙の春』という題名の理由は,第1章「明日のための寓話」である町の情景から明かされる.四季の花鳥風月は生命力に溢れ,人と自然が共存していたこの町で,突如奇妙な病気が続出して流行し始める.自然は沈黙し,草木は枯れ,鳥も魚も死に絶え,家畜は冷たくなり,人は倒れる.静まり返った町には,何週間か前にここに降り注いだ白い細かい粒があった.

 このような町は実際にはないが,似たような現象は珍しくはない,とカーソンは書く.「ものみな萌えいずる春」ならぬ,「ものみな死に絶える春」というわけである.本書を読み,悲しみをおぼえたある女性は,周囲の人々にこれを読むよう薦め,自分の娘と息子にこの本の価値を説いた.その息子は後に政治家となって『地球の掟 : 文明と環境のバランスを求めて』という本を書いた.本の中で,カーソンに影響を受けた母と,その母から教えられたことを述べている.彼の名はアル・ゴア(Albert Arnold Gore,Jr.).クリントン政権で副大統領を務め,2000年の大統領選にも出馬した.

 カーソンが問題にしたのは,農薬をふくむ化学薬品の大量使用である.特に殺虫剤に注目し,「有機酸素化合物」「有機燐酸系」に殺虫剤を分類した.前者の代表格が,白い粉末,DDT(Dichloro-diphenyl-trichloroethane)である.シラミやマラリアカの駆除に効果覿面だった薬剤は,よく効くモノの代名詞として用いられ,一説にはその威力から,プロレスの必殺技にまで同名がつけられたという.DDTは多くの国では使われていないが,マラリアの頻発する地域では使われ続けた.

 環境問題の議論で難しいのは,このDDTがもたらした害悪ということだけではなく,他方では利益を供してきたことの両方をいかに正しく把握するかということであった.1930年,アメリカでオランダニレ病が流行した.これは,ニレの木樹皮に棲むニレノキクイムシが媒介する病気で,日本の松枯病とよく似ている.そこで,ニレノキクイムシ駆除のためDDTの大量散布が始まった.すると,コマドリが大量に死ぬことになった.害虫を殺すためにまかれたDDTのたっぷり付着した葉は,そのまま落ち葉となる.それをミミズが食べる.ミミズの体内に濃縮されたDDTは,今度はミミズを食べるコマドリを死に至らしめるわけである.なお悪いことに,これはコマドリだけの問題ではなかった.アライグマやタカにも同じ理由で災いが襲いかかったのである.

 殺虫作用があまりに強力で,他の動物にも悪影響を与えることは,生態系の破壊にほかならない.また化学薬品は,有害な生物を撃退するために開発されるが,それにも限界が訪れる.生物が世代交代を繰り返すと,一部の系統に薬品の「耐性」をもつものが現れ,繁殖をはじめる.そこで化学薬品をかいくぐる新世代の害虫を殺すため,より強力な薬品を大量に使用することになる.これが害虫の抵抗との戦いである.この害虫との抗争が行き着く先,それこそが“沈黙の春”ということであった.

 ケネディ大統領が科学技術特別委員会に農薬問題についての調査を命じ,カーソンの実証的研究の裏づけが取れた後,彼女は公聴会に車椅子で出席した.この時,彼女の健康状態は最悪だった.リウマチ,心臓発作,虹彩炎,悪性腫瘍などに冒されていたのである.臨んだ公聴会で,薬剤の使用をできるだけ少なくするか,全く使わない新しい防除法に関する研究を支援してほしいと訴えた.

この目的を達成するのは,創意と執着と献身が必要ですが,その生み出す成果は偉大なものです

 これを最後に,カーソンが公的な場で発言することはなかった.そして1964年,メリーランド州シルヴァー・スプリングで死去.この年の1月,『沈黙の春』は累計60万部を突破していた.

 カーソンの原点は,生物学者を志した2つの機関にあるといわれている.1つは,メリーランド州ボルティモアにあるジョンズ・ホプキンス大学大学院.もう1つは,マサチューセッツの大西洋に面したウッズホール海洋生物研究所.もともと作家志望だったカーソンは,大学院入学後,知己からこの研究所の研修員ポストを紹介され,奉職することになった.彼女はそこで初めて海を見た.恵まれた研究環境,すべてを包み込むような大海原は,いつまで眺めても飽くことがなかったという.

 『われらをめぐる海』『海辺』と海洋関係の著作の後,本書は生み出された.『海辺』の序に述べられているように,「生物と地球を包み込む本質的な調和」というのが,海洋生物学者カーソンの原点であり,それは海から始まった.だが,本書には述べられている.

これから生まれてくる子どもたち,そのまた子どもたちは,なんと言うだろうか.生命の支柱である自然の世界の安全を私たちが十分守らなかったことを,大目に見ることはないだろう

 カーソンは,文明のもつ矛盾を解明し,解決法を導くことを先送りしてはならないと考えた.自然界の住人が不当に死ぬことになれば,人間の未来をも脅かす.人の生存と環境との共存という観点から,創意と執着と献身で英知を集約するべきだと考え,カーソンは本書とその思想を,ほぼ同時期に結ぶことになったのである.

++++++++++++++++++++++++++++++

Title: SILENT SPRING

Author: Rachel Carson

ISBN: 4102074015

© 1974 新潮社

▼『沈没船が教える世界史』ランドール・ササキ

沈没船が教える世界史 (メディアファクトリー新書 16)

 20世紀末,ポルトガルの考古学チームは沿岸で一隻の沈没船を発見した.17世紀頃に沈んだらしい船からはおびただしい量の胡椒が発見され,船は「ペッパレック(胡椒沈没船)」と名づけられる.他に発見されたものはシナモン,クローブなどの香辛料,金に珊瑚,日本や中国の陶磁器‥‥ポルトガルの船乗りが世界を経巡った証拠が,そのまま海の底に残っていたのである.日本でも専門学部が創立され注目が集まる「水中考古学」.アメリカで最新の水中考古学を学ぶ若き日系アメリカ人研究者が,初めてその最先端を語る一冊――.

 歌山県の串本沖で嵐に見舞われ,1890年に沈没したトルコの軍艦エルトゥールル号の犠牲者は,約600人であったと考えられている.沈没したエルトゥールル号からは,当時には希少品とされたガラス製品が発見され,トルコから日本への運搬物の価値を推察させるものだった.トルコ南部で見つかったケープ・ゲラドニャ沈没船からは青銅の破片が大量に見つかり,ポルトガルのペッパーレックからは,胡椒が原型を留めたまま大量に引き揚げられた.

 酸素の遮断される海底に没した船舶は,陸上の遺跡よりも保存状態のよいケースが多い事実は興味深い.1960年代にトルコで沈没船の発掘を開始したジョージ・バス(George Bass)の活動から,海の考古物<沈没船>の調査と科学的探究は始まったとみられ,沈没船の探査の歴史は浅い.「水中考古学」には,沈没船や海底遺跡に2~3年の事前調査と6か月前後の発掘作業,10年以上の事後管理にかかると著者は述べている.試論としての学問上の定義・分類も好感が持てる良書.

 海洋資源開発における技術力の高い海洋利用国は,国際的な条約や規制に対する懸念を抱きながらも,その定める規範の下での海洋資源の利用を模索している.しかしながら,海洋資源開発における国際的な規範の確立には,いくつかの障害がある.例えば,海洋利用国は,海洋資源の利用に関する国際条約が定める原則や規定について危惧する.原位置保存の原則や,水中文化遺産の所有権,政府船舶である沈没船の主権免除に関する規定に対する懸念があるためだ.

 世界の海域には300万隻以上もの沈没船があると推定されている.水中における考古学的フロンティアの真価が問われる問題は,海洋利用国が条約の批准に踏み切る際の大きなハードルとなっている.具体的に「水中文化遺産保護条約」は,海底遺跡や沈没船など水中にある文化遺産の保護を目的としている.しかし,この条約の下では,トレジャーハンターによる無秩序な引き揚げが規制されており,海洋利用国がその規定を受け入れることについて慎重な検討が求められている.

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: 沈没船が教える世界史―われわれの知る世界の歴史は海の考古学者たちの「発掘」によって,塗り替えられつつある!

著者: ランドール・ササキ

ISBN: 9784840136648

© 2010 メディアファクトリー

▼『ことばの歳時記』金田一春彦

ことばの歳時記 (新潮文庫)

 移りかわる日本の美しい四季折々にふれ,ある日は遠く万葉の時代を回顧し,ある日は楚々とした野辺の草木に想いをはせ,ある日は私達が日常生活の中で何げなく使っている言葉の真意と由来を平易明快に説明する‥‥著者のユニークな発想と深い学識によって捉えられ選ばれた日本語の一語一語が,所を得てみずみずしく躍動し,広い視野と豊かな教養をはぐくむ異色歳時記である――.

 諧とは,季節感や日常の情景を繊細に描写する日本の詩形であり,その中でも季語を用いた作品は特に四季感を重視する.「歳時記」は,俳句や俳諧における季題を四季に応じて分類し,語を季別,時候,天文,人事,宗教,動植物などの部門別に分類して解説を加えた手引書である.

 1965年に「東京新聞」「中部日本新聞」に連載され,400字詰め原稿用紙1枚に1日1題が収められた.その簡潔さは,誰もが日常の中に季節の移ろいを感じることを助け,また,先入観からくる誤解を解きほぐす小さな「発見」が散りばめられている.言葉の解釈や古い意味,時には冗句が含蓄ある平明さで解かれている.

 例えば,「梅雨」という季語について,一般的な理解とは異なる解釈が提示されている.これは旧暦の5月に降る雨を指す言葉で,「五月雨」と同じ雨をさすが,その語感は大きく異なる.また「梅雨晴れ」も,梅雨の間の晴れ間とされがちであるが,実際には梅雨明け後の晴天を指すとされている.

 連歌俳諧の式目書,作法書に配置された季語の分類配列や,ことばの背後に広がる豊かな感性を汲み取ることで,詩文の理解が一層深まり,詩文の深みを一層引き立てるだろう.「歳時記」は,俳諧の季節感を伝える小さな宝であり,日常の中に季節の息吹を感じる手助けとなるだけでなく,言葉の奥深さを探求する旅へと人を誘う.

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: ことばの歳時記

著者: 金田一春彦

ISBN: 9784101215013

© 1973 新潮社

▼『鏡が語る古代史』岡村秀典

鏡が語る古代史 (岩波新書)

 中国の皇帝が邪馬台国卑弥呼に贈った「銅鏡百枚」.日用の化粧具のほか,結婚のしるし,護符,政権のプロパガンダなど,さまざまに用いられた古代の鏡は,どのようにつくられ使われてきたか.鏡づくりに情熱を注いだ工匠たちの営みに注目しつつ,図像や銘文を読み解くことから,驚くほど鮮やかに古代びとの姿がよみがえる――.

 都大学人文科学研究所の共同研究「中国古鏡の研究」を主催した著者は,押韻や仮借に留意しながら前漢から西晋までの古鏡の銘文を整理,訳注を付す膨大な作業を手がけている.古墳文化直前の日本では,中国の先進的な宝器に敬意を払い,漢や魏の鏡がそこに含まれていた.春秋戦国時代,漢鏡,唐鏡,宋元鏡とそれぞれ特徴をもつ古鏡は,幾何学文様で飾った直弧文鏡,狩猟文鏡など意匠が凝らされ,在銘のものは多く祥句,故事が書かれている.

古代の銅鏡に関心がもたれるようになったのは,いまから1000年も前にさかのぼる.中国のルネサンスといわれる北宋時代(960~1127),文人官僚たちは古代にならった儀礼制度への改革を進めるため,地中から掘り出された古代の銅器や石碑を珍重し,そこに刻まれた文字を研究するようになった.それが金石学のはじまりである

 意匠や吉祥句には,古代人の形成した世界観や思潮をうかがわせるものが多く,さらに器物の変容から思想の変遷を辿る観点から見逃されてはならないのである.470例の銘文――検討した銘文はその数十倍に及ぶという――の訳注には脱帽するが,伝統的な考古学および形式学を痛烈に批判した反右派闘争――文化大革命期の大衆政治運動――「人間の探求をめざす考古学」に大いに共感を覚えた,という記述は不可思議としかいいようがない.

『国の大事は祀と戎にあり』(『春秋左氏伝』成公13年条)といわれたように,祭祀と戦争は古代国家の根本であり,その礼楽器と武器・車馬具は青銅でつくられた.青銅器が古代国家を維持するもっとも重要な資財とされる所以である.しかし,銅鏡は礼楽器より早く出現したとはいえ,殷周時代の作例はあまり多くない.また,儀礼について記した『礼記』や『儀礼』などの儒教経典には,青銅の酒器・食器・炊器・楽器などにかんする記述が豊富にあるが,祭祀儀礼において鏡はほとんど用いられていない

 古代の鏡を観察しなければ,鏡に彫琢された銘文の抒情性や図像文様の意匠からみる精神性を考察できるはずもない.反右派学生より「ただ器物だけを見て人を見ない俗流の進化史観」と猛批判された伝統的考古学の研究者(北京大学)がいたというが,器物変化と人間の思想変遷が互いに無干渉と断定できる進化史観などありうるのだろうか.人間の精神世界を明かす資料として鏡の図像と銘文をとらえる研究立場ならば,詭弁と甘言の見分けがつかないはずはないだろう.

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: 鏡が語る古代史

著者: 岡村秀典

ISBN: 4004316642

© 2017 岩波書店