■「生きる」黒澤明

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 三十年間無欠勤の市役所の市民課長・渡辺勘治はある時,自分が癌に冒されている事を知る.暗い気分の勘治に息子夫婦の冷たい仕打ちが追い打ちをかける.街に出て羽目をはずすが気は晴れない.そこで事務員の小田切とよと出会い,今までの自分の仕事ぶりを反省する.勘治は心機一転,仕事に取り組むが….

 自治体市役所某課の実態を垣間見る機会に恵まれたことがある.職場は,活気のなく澱んだ雰囲気,絵に描いたような事勿れ主義と日和見主義の集合体であった.出勤してから退出するまでに,3度のティータイムがある.次年度の予算削減がないように,批判されない金の遣い方を真剣に議題に上らせる.残業手当で基本給3分の1相当の額を稼ぎ出す「勤勉」な者もいて,唖然とした.意思決定と運営に民間の常識が通じない.未曾有の不況と官民の非対称性への口槍に引きずられ,組織の体質が刷新されるはずはない.役所の窓口に掲げられている文面とは裏腹に,市民の要望はたらい回しにされ,言いくるめられて嘆願者は引き下がる.人生という暇を食い潰して生きていた渡邊勘治が開眼するのは,そのような市民の窮状に奮起したからではない.あくまで個人的事情が急迫したからに過ぎないという部分に,黒澤明のリアリズムがある.

ここは,市民の皆様と市役所を直接に結びつける窓口です.市政に対する皆様の不平,不満,注文,希望,なんでも遠慮なくお申し出ください

 レフ・トルストイ(Ru-Lev Nikolayevich Tolstoy)『イワン・イリッチの死』の脚色からスタートした本作の企画であるが,渡邊が直面していたのは忍び寄る死期,男手ひとつで育て上げた息子が立派に社会人となり,もう父親を必要とはしていない現実.家族との結びつきに確信を持てない渡邊が,自分の手がけてきた仕事を顧みると,誇れるようなものは何もない.ただ自分が責任追及の当事者にならぬよう,腐心していた.トルストイの小説では,イワンは死を憎み,他者を憎み,最後にこの世を去る自分の運命を憎んだ.本作で渡邊が我に返る(=人生を真剣に再考し,残された時間の費やし方を決める)までには,居酒屋で知り合った三文小説家,退屈な役所の仕事に嫌気がさして辞表を提出した奔放な女性職員との「同調と違和」を体感する必要があった.彼が到達した結論は,「無為な死だけは避けねばならない」.極端に保守的な役所仕事を転じさせる能動的な行動を開始することによって,渡邊は自分の余生に意味づけを行おうとする.

 成功したならば,癌に侵される以前から「死に体」であった自分の人生に,初めて意味を付与することになる.ここからの展開が凄い.次の瞬間,渡邊は世を去ったことが卒然として説明されるのである.公僕としての本義を果たすべく,奮闘を開始した彼のエピソードは,「在りし日」の故人の思い出となる.市民の陳情に耳を傾け,不安全な土地を区画整備し,ささやかな小公園を建設することに文字通り決死の覚悟で当たる.映画としては,クライマックスに葬儀の場面を持ってきて,讃えられ惜しまれながら葬送で幕とする案も検討されたはずだ.それを採用せず,だしぬけに場面展開させた.この横紙破りを短絡に終わらせないことが,黒澤の技量である.黒澤映画の常連だけに頼らず,派手なアクションもない.しかし,人生の哀歓を歌い上げる本作は,新東宝映画芸術協会,松竹=映画芸術協会ラインから東宝にプロダクション復帰した第一作.東宝争議の混乱を経て,成瀬巳喜男らと映画芸術協会を設立した経緯で,黒澤はロシア文学を範にとり,人生の目標・意味・価値論を映画に投じる基礎が固まった時期であっただろう.

 雪の降る公園で,ブランコに揺れながら「命短し恋せよ乙女…」と口ずさむ渡邊の両眼には,涙が一杯に湛えられている.通夜の席で上司・同僚・部下が喧喧と渡邊を評すが,誰も彼の行動にあやかろうとはしない.病の進行する身で抵抗勢力を抑え込み,市民の信頼を勝ち得ていった男を誉めそやすより,やっかみと戸惑いのほうが遥かに大きい.役人の体質など,容易には変わらない.しかし,どっぷりそこに漬かっていた男の人生は変わった.本作は,「満足できる死」とは何か,無為と空費からの脱却の切願,その到来期を提示する.無論,多くの組織関係者は,渡邊ほど腹を括ることはできない.保身のアンチテーゼが現実的であるために,孤独な男の最期の燃焼が胸を打つ.黒澤映画の中では起伏に乏しいと評す立場もあるようだが,骨太な気概がヒューマニズムに結束された傑作である.

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原題: 生きる

督: 黒澤明

143分/日本/1952年

© 1952 東宝