■「ミクロの決死圏」リチャード・フライシャー

ミクロの決死圏 [DVD]

 脳内出血の重症を負った科学者の命を救うため,想像もつかない治療法が試みられる.外科手術不可能と診断されたその患部に,手術担当員を細菌大に縮小して送りこみ,体の内側から手術しようというのだ.制限時間は1時間,果たして作戦は成功するのか….

 ルバドール・ダリ(Salvador Dalí)が製作したリトグラフと,映画の原題(FANTASTIC VOYAGE)が同じだったため,映画「ミクロの決死圏」の美術原案はダリが担当したという説が,まことしやかに流れた.残念ながらこれは都市伝説の類である.公開の前年に発表されたそのリトグラフと,本作には何の関わりもないことが,ダリ美術館の学芸員の調査で明らかになっている.シュールレアリストであるダリの幻想的で奇抜な作風と,人間の体内にミクロ化して潜行する一団の冒険を描いた本作のイメージが,偶然にも一致した印象をもたらしたからにほかならない.「幻想的な旅」とでも訳すべき原題を,緊迫感溢れる邦題に差し替えたセンスのよさ.「自然界は宇宙,人体は小宇宙」といわれるように,人間を構成するおよそ60兆個の細胞は,各器官の役割を持つ組織を作り,相互に連関して生命活動を維持しておりその調和と防衛活動の総体が一人間の生命力であることの衝撃.1966年当時,まだ一般向けの電卓すら発売されていない時代である.

 東欧の科学者ヤン・ベネシュ博士がアメリカに亡命してきた.しかし,到着直後に東欧の諜報部はアメリカへの頭脳流出を防ぐため,博士の乗り込んだ車を襲った.脳内出血を起こし昏倒した博士だが,アメリカ側は博士を死なせるわけにはいかない.博士の開発した「超空間投影法」技術は,物体を細菌レベルに縮小し,それを長時間維持することを可能にするものだった.通常の外科手術では博士の救命は困難なため,アメリカのCMDF(総合ミニチュア統制軍)は,博士の脳内出血の患部を体内から手術によって除去することが必要と決断した.しかし,現在のアメリカの技術では,超空間投影法は60分間しか持続しない.急遽,潜行艇プロテウスに乗り込み施術する5人(脳外科医デュバル,助手コーラ,循環器の専門医マイケルス,海軍大佐オーウェンス,特別情報部員グラント)が選ばれた.ミクロ化した医療チームが体内に潜入し,タイムリミット内で手術を完了するという医学史上,例を見ないミッションが始まった.

 東欧から亡命してきた科学者の故国は明らかにされていないが,明らかに「鉄のカーテン」の示す東西冷戦の緊張状態を強く意識している.比喩の語源は,1946年に「バルト海のシュテッティンからアドリア海トリエステまでヨーロッパ大陸を横切る“鉄のカーテン”が降ろされた」と述べたウィンストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)の言葉.ちなみに,ベネシュ博士が亡命したのは,設定上はチェコである.「内部の内部は外部」とはよく言ったもので,SFといえば宇宙からの襲来,という紋切型を打破するために考案された脚本は,人体の包摂する空間を前人未到の「宇宙」と解釈した.このマクロからミクロのフロンティアへの発想転換がすばらしい.新たな魅力あるSF舞台へ飛び立つのは,宇宙飛行船さながらの潜航艇であった.

 本作の脚本は,知的好奇心をくすぐるのに,宇宙を旅立つことと「体内の探索」はまったく同一の次元で胸躍らせる冒険譚になると証明してみせた.脚本を担当したのは,「狂った野獣」(1960)「栄光のル・マン」(1971)などを手がけたハリー・クライナー(Harry Kleiner).アドベンチャーとスリリングなサスペンス要素を盛り込んで,アメリカの科学技術の結集力を存分にアピールした.60分間という限られた時間での任務遂行に,次々に襲いかかる難事を突破する連続的シーンは鮮やかだ.あまり気づかれることなく,また意識する必要もないことだが,本作は100分の上映時間中,前半およそ40分で舞台設定と決死圏に旅する医療団の説明がなされ,後半60分でミッションを完遂し生還を遂げる.したがって,「60分」というミクロの有効時間は,現実の鑑賞時間にリンクした「リアルタイム映画」なのである.このことが,リアルタイムで一行の探検を見届ける「視点」と劇中の「能動者」との一体感を生む.すべて作り物だとわかっていても,無事に大仕事をやり遂げて還って来た彼らを見て胸をなでおろす気持ちになるのは,うまく時間の帳尻を現実と映画で合わせているからだろう.

 誰の目にも,医療団に加わった東欧の内通者は明らかだが,アメリカの科学者が「哲学者は正しかった…人間は宇宙の中心だ.マクロの世界とミクロの世界の中間にいる.そのどちらも無限だ」と感嘆し,これほど精密かつ深遠な「人間という存在」を創造した“主”に敬虔な思いをいたすのに対し,内通者はそれを鼻であしらい,揶揄した態度をとる.この時点では未来の話になるが,東西冷戦が終結したあと,世界の科学技術は自由主義に向けて投資を始めた.本作の内通者に,その思想を開示する機会は与えられていない.彼は原子と空虚によって成り立つ世界に感覚的な恐怖などないとしたエピクロス(Epikouros)よろしく,唯心論的なアメリカ人の信仰を冷笑する立場なのである.本作の脚本に入れ込んで小説化したアイザック・アシモフIsaac Asimov)も,作品化に際して映画の科学的根拠の薄さを補いつつ,カトリシズムの助長にならないよう気を付けていた.

 人間の体調を内疾患として脅かす要因は,ミクロのレベルであることが多い.人間が極度に小さくなれば,違った世界の住人として新しいドラマが発生するのではないかという発想は,本作オリジナルのものではない.『ガリヴァ旅行記』の小人国とは比較にならないほど極小レベルという前提でいえば,1948年に手塚治虫が「吸血魔団」という漫画を発表し,これが翻案され1964年のアニメ「鉄腕アトム」第88話「細菌部隊」でアトムがミクロサイズになって患者の体内治療を行う,という筋の作品を出した.アメリカでも「アストロボーイ」として放映されていたため,本作の製作陣が手塚のアイデアにインスパイアを受けた可能性があるが,実際のところは分からない.また,藤子・F・不二雄も漫画「ドラえもん」で本作と全く同じ発想を持っていたのに,先に発表され悔しがったという逸話も残っている.人間のサイズを変えることで物語を作る場合,探索型の冒険にすることが着想の順序として展開されていくのだが,それがいずれも「体内」であることが見て取れる.本作の場合,そこにアメリカ科学技術の国威を誇示したいという欲求と相まって,「手術」と「軍事作戦」としての“オペレーション”を掛けて物質のミクロ化と探索,治療が遂行されるストーリーに落ち着いた.もっとも,科学技術の現実的な面に言及しておくと,仮に人間がミクロ化しても,ミクロの世界を調べ上げることはできない.そのサイズの可視光でミクロの世界を見ることが不可能なためである.

 原子は可視光の波長よりもずっと小さい.そのため,ミクロの身長でミクロの世界を認識するには,光の波長を原子に合わせて縮小しなければならないはずだ.その技術が実用化されるまで,まだまだ多くの試行錯誤を必要とするだろう.監督のリチャード・フライシャー(Richard Fleischer)は,「海底2万哩」(1954)でも潜水艇の冒険譚を撮った.海洋,宇宙,時空と並び,人体が立派なSFの舞台になることを示し,最も成功した例として,本作は紛れもなく古典の部類に属している.

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原題: FANTASTIC VOYAGE

監督: リチャード・フライシャー

100分/アメリカ/1966年

© 1966 Twentieth Century-Fox Film Corporation