シェイクスピア(1564‐1616)の喜劇精神がもっとも円熟した1590年代の初めに書かれ,古来もっとも多く脚光を浴びて来た作品のひとつ.ヴェニスの町を背景に,人肉裁判・はこ選び・指輪の挿話などをたて糸とし,恋愛と友情,人情と金銭の価値の対照をよこ糸としているが,全篇を巨人のごとく一貫するユダヤ人シャイロックの性格像はあまりにも有名である――. |
戯曲「ヴェニスの商人」は,悲劇でなく喜劇用に1594年から1597年までに書かれ完成された.「商業ないし金融で利殖する行為」がキリスト教で悪徳とされるのは,それらが労働せずして対価を得る不労所得と解釈されるからであった.「すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を,あなたの同胞から取ってはならない」と「申命記」23:19にはある.一方,ヨーロッパでギルド(特権的同業者組合)が発達していくと,加入者の生活費用に充てる資金援助,また共有の準備財産を形成する保険の仕組みが編み出されていく.
土地を没収されてゲットーに囲い込まれ,差別のため一目でわかる記号(赤い帽子)の着用を義務付けられたユダヤ人には,蔑みの対象となる仕事が残された.金貸を含む金融業である.ユダヤ人は東欧に多く集っていたが,11世紀の十字軍やイスラム帝国分裂の影響で北アフリカやトルコ,ヴェニスなど地中海沿岸の商業都市に移住を余儀なくされている.この戯曲が完成された1597年にフランシス・ベーコン(Francis Bacon)が出版した『随筆集』には,金銭の貸借に関して利子――活発な経済活動に支障をきたさない現実的な利率――を取ることは避けられないことを認める記述がある.
シェイクスピアの意図は,これら観点から必ずしも明解ではないものの,ギルドの機能が高まると,資本家のキリスト教徒が貿易中間業といった商業からユダヤ人を締め出した.金融業に追いやられたユダヤ人は,中央銀行の機構や貨幣の統制に関するテクニカルな技法を高め,後に大英帝国の為政者もそのスキルを金融政策に採入れざるを得なくなる.恋愛と友情,人情と金銭の「価値の対照」を喜劇的要素とする意図に反して,当時のロンドン市民が抱く金融業者に対する憎悪や反ユダヤ感情を無視することはできない.
あの男はおれを侮辱し,おれのもうけの邪魔をした,おれの損失をあざ笑い,おれの儲けを小ばかにし,おれの民族を蔑み,おれの商売を妨害し,友情には水をさし,敵意をあおった.なんのためだ.おれがユダヤ人だからだ.ユダヤ人には目がないというのか,手がないとでも,内臓がないと,体の各部分がないとでも,感覚がない,感情がない,情熱がないとでもいうのか.同じ食べ物を食べ,同じ刃物で傷つき,同じ病にかかり,同じ治療で治るのでは,キリスト教徒のように,同じく冬の寒さや夏の暑さを感じるのでは.おれたちだって刺されれば血が出るし,くすぐられれば笑う,毒を盛られれば死ぬじゃないか.おれたちを痛めつけたら復讐しないとでも.ほかが同じなら復讐だって同じだ
作中で,悪徳高利貸シャイロックが肉の抵当を取ることを頑として譲らない場面で叫ぶ「ユダヤ人には目が無いと言うのか?」から続く一連の台詞は,ユダヤ人に対する偏見・差別への憤怒.時代背景を鑑みれば,シャイロックは,ヴェニスの居住者でありながら市民権を剥奪されていた"迫害のディアスポラ"の存在感を劇的に高めた.これにより,本書は滑稽な喜劇と崇高な悲劇の混合〈悲喜劇〉の雄編の風格を帯びることとなったのである.
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Title: THE MERCHANT OF VENICE
Author: William Shakespeare
ISBN: 4003220439
© 1973 岩波書店