■「遊星からの物体X」ジョン・カーペンター

遊星からの物体X 4K Ultra HD+ブルーレイ スチールブック仕様(2枚組)[リージョンフリー 日本語収録](輸入版)

 その恐怖は一匹の犬から始まった.見渡す限り氷に囲まれた白銀の大雪原をヘリコプターに追われて逃げる犬は,アメリカの南極観測基地へと辿りつく.ヘリコプターを操縦するノルウエー隊員が銃を乱射したため,アメリカ隊員はやむをえず彼を撃ち殺すが,やがて,ノルウエー隊員が異状に錯乱していた理由が明らかになる.なんと犬の正体は10万年前に地球に飛来したエイリアンだったのだ! 接触するものを体内に取り込むエイリアンは,巧みに人間の姿に変身,吹雪に閉ざされた基地内で,隊員たちは互いに疑心暗鬼になっていく….

 物版「南極物語」.悪夢としか思えない場面が次々に展開する.一般商業をある意味無視して自己の才能を開陳する製作者の慰労がなされた,数少ない作品.グロテスクな姿を惜しみなく披露する怪物が密室で次々に人間に襲いかかる.しかも牙を剥くその瞬間まで姿を宿主に擬態したままという案は,明らかにそれまでのモンスター映画の主流,怪人型や怪獣型のものとは一線を画すものだった.このジャンルにおいてはその後の流れを一気に変えた観すらある.当時としては最新のSFXが,今の最新CGよりもはるかにリアルな「ハリボテ」であることは実に興味深い.フランク・ダラボン(Frank Darabont)の「ミスト」(2007)で本作がオマージュとして登場したのが印象的だった.やはり巧みなCGより,本作のリアルで不気味で味のあるクリーチャーの造形,ジョン・カーペンター(John Carpenter)という異才と若干22歳でSFXのアイデアを注ぎ込んだ特殊メイクアップアーティスト,ロブ・ボッティン(Rob Bottin)のストイックさには敬意を表したい.

 ジョン・W・キャンベルJr.(John Wood Campbell Jr.)の『影が行く』を映画化した「遊星よりの物体X」(1951)のリメイク作品である.しかし,1951年版が北極(本作では南極)で怪人型の怪物が隊員を襲う「人」と「人外」の対決型の設定だったのに対し,本作は人間に同化して擬態する点,しかも作中では明らかにされていないが,取り憑かれた本人も“物体X”の細胞が覚醒して変形を始めるまでは,どうやら自覚できないようだ.その疑心暗鬼と共食いの構図が,南極という閉ざされた地で限定された空間に存在し,「それ」は静かに牙を剥く.この恐怖が最高潮の緊張を生むことに成功している.カーペンターが最も撮りたかったという「血液検査」のシーンは本作の白眉とされているが,基地を静かに歩きまわる南極犬の姿を追う静謐なカットのつなぎ合わせと,その犬が怪物に変身するおぞましい場面,この鮮やかな対比も忘れがたい.衝撃的な描写を最大限に生かす,編集技術の巧さがSFX造型を支える確かなパートナーとなっている.

 細胞単位で意識を持つ生物という,既存のモンスターとはかけ離れた発想に形と動きを与えたボッティンの腕は嘆息が出るほど見事だ.制作当時,若干22歳という若さが生み出すイマジネーションが溢れている感じがする.勇を鼓して次々に出したアイデアも,「これ以上やったら怪獣映画になってしまう」とカーペンターからブレーキがかかるほどだったというから凄い.「エイリアン」(1979)から3年後に公開された本作だが,公開直後の批評は散々だった.「エイリアンの模倣,それも心ない模倣」「これはゲロ袋映画である」「これ以上ひどいのはアウシュビッツの記録映画かスナッフムービーくらいだろう」などの批難が囂々.しかし,よき映画を求めるファンたちからはホラー映画好きのコア層はもちろんのこと,それ以外の層にも傑作の呼び声が高まった.優れた映画を生みだす土壌が整っていれば作品にとって幸運なことといえるのだろうが,本作はその下ごしらえを凌ぐ才能とインパクトが世に美点を認めさせたタイプの映画なのである.

 男だけしか出てこない,本気で色気のかけらもない映画だが,カーペンターが女性をうまく描けないことにはかねてから定評があった.その力量を見越して,あえて女性を登場させずそれが結局は功を奏した――このような憶測をするのは自由である.しかし,実際はそうではなかった.カーペンターは初めから潔く男臭さに懸けたのではなく,当初は隊員として女性キャストが予定されていたのである.しかし,その役者が妊娠してしまったため,男性キャストが代役を務めた.また,本作の重要なアクターを語るには南極犬の演技も欠かせない.この演技達者な犬はジェッドという名前で,狼とハスキー犬のハーフである.純粋なハスキー犬よりも精悍な顔立ちをしているのはそのためであるが,実にアドリブ達者でカーペンターも主役のマクレディを演じたカート・ラッセル(Kurt Russell)も感心していた.ドアの前で立ち止まり,じっと何かを凝視したかと思えば動き出し,不思議な挙動をする犬だった.怪物と同化する選ばれた犬の演技に,奇妙な現実感がそこに漂う.

 カーペンターは,「あなたの想像力が,あなたの限界になる」と語っている.確かに,目に見えない不安を人間は最も恐れる.そこで,人間に擬態するエイリアンが登場することが恐怖を煽るのに効果的と考えられた.しかし,作り手は何といっても「ハロウィン」(1978)「ザ・フォッグ」(1981)のカーペンター,そして若き俊才クリエーターのボッティンである.煙に巻く作風で満足できるわけがない.それで嫌というほど画面にクリーチャーが暴れまわるのだが,生理的嫌悪感と気づかぬうちに忍び寄る恐怖を融合させ,閉鎖空間における人間の精神的駆け引きを盛り込んで,「これで終わりではない」と示唆するラストの秀逸さ.そのすべてが,本作を第一級のB級作品に仕立て上げた.

 冒頭でマクレディがJ&Bウイスキーを傾けながらパソコンでボードゲームをするシーン.ゲームに負けたマクレディは,腹立ちまぎれにウイスキーを氷ごとパソコンにひっかけて,パソコンは壊れてしまう.ここに,「ゲームには負けたが支配には屈しない」というメッセージを見出すことができる.極限の状況で逃げ場を確保することすらできずに“物体X”と対決し,刺し違えるアングラなシークエンスを暗示しているようで興味を引く.低予算の映画のため,コストを抑える苦肉の策がいくつも実行された本作は,屋内での撮影はLAのスタジオ内で行われたが,南極の空気を演出するため,スタジオ内は真冬の気温にまで冷却されていた.しかし一歩スタジオの外に出ると,真夏のLAの猛暑(30度以上)で炎天下だったという.

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原題: THE THING

監督: ジョン・カーペンター

109分/アメリカ/1982年

© 1982 Universal Studios.