▼『神童』山本茂

神童

 少年は,ヴァイオリンを手にしたとたん神になった.マックス・エッガー,ヤッシャ・ハイフェッツ江藤俊哉ダヴィッド・オイストラフ…世界の名だたる巨匠たちはこぞって少年の演奏に驚嘆し,新しい才能の誕生を祝福した.やがて昭和30年,少年はジュリアード音楽院に留学する.そこで彼を迎えたのは,日本に倍する米国人の絶賛と,深い深い孤独だった.これは,日本そのものの運命にも似た,清冽な魂の悲劇の物語である――.

 のヴァイオリンの音色は,「天上の音楽」と評されていた.「ヴァイオリニストの王」の異名をとるヤッシャ・ハイフェッツ (Jascha Heifetzas)の称賛を受け,14才で単身アメリカに渡り,サンタバーバラのミュージック・アカデミーを受講したのちニューヨークのジュリアード音楽院の最年少スカラシップを得た渡辺茂夫.7歳の時にはすでに,難曲で知られるパガニーニ(Nicolò Paganini)のヴァイオリン協奏曲第一番をオーケストラと共演するなど,彼の才能は大変なポテンシャルを備えたものだった.しかしそれ以上に,鋭敏過ぎる神経を時期が来るまで,庇護してやらねばならなかったことに,周囲の大人たちは誰も気づかなかった.才能の放つ光が,眩しすぎたのである.

 養父・渡辺季彦は,優れたヴァイオリニスト奏者で,同時に苛烈な教育者であった.一流の音楽家を育てるには,早期からの英才教育しかないとの信念のもと,茂夫に徹底教育を施した.茂夫もそれに食らいつく.子どもながらに頑固さは折り紙つきで,火を噴くようなレッスンは,師の怒号と弟子の泣き声で戦場のようであった.子ども用サイズのヴァイオリンには,茂夫の流した涙の跡がくっきり残っている.神童には,生まれながらに稀有なセンスをもつ先天型と,過酷な訓練を経て練磨されていく努力型の2つのタイプがあるという.茂夫の才能は,まさに後者であり,先天型には身に付かない努力することでしか生まれない「深み」を追求させねばならないことを,季彦は見抜いていた.

茂夫のヴァイオリン・テクニックは父の厳しい指導でミスのない堅牢さが特長だった.それだけではない.ベートーベンの至高の響き,慰撫にも似た透明な光が流れていた.苦しみや悲しみを突き抜けたところに宿る救いと慰めを茂夫のヴァイオリンは奏でていたという

 茂夫の将来は,数々の先覚者も嘱望した.マックス・エッガー(Max Egger),江藤俊哉ダヴィッド・オイストラフ(David Fiodorovich Oistrakh)―.ハイフェッツの強い勧めで,茂夫はイヴァーン・ガラミアン(Ivan Alexander Galamian)の薫陶を受けることになる.この判断は,誤ってはいなかった.ヴァイオリン奏者の養成にかけては,20世紀で最も影響力を誇ったガラミアンである.ところが,肝心の師弟関係を結ぶうえでの「相性」を慎重に考慮していなかった.レオポルド・アウアー(Leopold Auer)の流れを汲む奏法を,季彦は茂夫に叩きこんでいた.しかし,ガラミアンはアウアーの技法に懐疑的で,すでにアウアー奏法を基礎として確立していた茂夫の音楽を根底から覆そうとした.天賦の才に恵まれたとはいえ,まだ14歳の茂夫は,次第に自分の音楽の美点を見失い,深い孤独に沈んでいった.

 1957年11月2日,茂夫は未成年の購入が禁止されている睡眠薬スコポラミン,プロバンサインを大量服薬した.自殺を図ったものなのか,思春期特有の情緒不安定からくる発作的なものなのかは不明である.幸いにも一命を取り留めたが,脳障害が残り,1999年8月15日に没するまで,自力で歩くことも,言葉も,そしてヴァイオリンの弓を持つ力も失った.変わり果てた姿になってしまった茂夫を,季彦は施設に入所させることなく,食事から排泄にいたるまで,介護のすべてを自身で行い続けた.わずか2年間の留学生活は,茂夫から輝かしい栄光を剥奪していった.彼の心の闇は,誰にも推し測れるものではない.どんなに優れた才能も,それを大切に育てる土壌がなければ潰えてしまうことを,彼の悲劇は不幸にも証明してしまった.すばらしい設備の整ったコンサート・ホールは,にこりともせず,しかしヴァイオリンを取り上げれば,随一の音楽家が聞き惚れたという音色を響かせる少年の舞台であり続けるはずだった.

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原題: 神童

著者: 山本茂

ISBN: 4163513302

© 1996 文藝春秋