■「ゾディアック」デヴィッド・フィンチャー

ゾディアック ディレクターズカット [Blu-ray]

 サンフランシスコでカップルが襲われる事件が続発し,やがて犯行を告白する手紙が新聞社に届く.取り憑かれたように犯人を追う刑事,サンフランシスコ・クロニクル紙の記者と,その風刺漫画家.彼らの人生は,事件への執着によって次第に狂わされていく….

 ヴィッド・フィンチャー(David Fincher)の映画に入り込んでいくだけでは,スタイリッシュな映像に幻惑される.フィンチャーの触手にからめとられていることすら知らずに,軽妙でも重厚でもない彼の映像美に陶酔して,ほかのことを考える余地を忘れてしまう.逆に,そのようなフィンチャーに抗うことが,異様な快感を覚えさせる.けれど,それすらフィンチャーのロジックには組み込まれている.

 黄道十二星宮(zodiac)の黄色.1968年から1974年にかけ,サンフランシスコの住民を震え上がらせたシリアルキラー,ゾディアックの色である.警察が把握している件数だけで,同一犯により5人が殺害されている.1968年に2件の殺人を報せ,その後の連続殺人を示唆する電話がヴァレホ警察にかかってきた.暗号文を新聞社「タイムズ・ヘラルド」ほか2社に送りつけ,そこには円と十字を組み合わせた特徴的な記号が載せてあった.「3社の暗号を解読すれば,犯人にたどりつけるだろう」という.

 それは自分のことを「ゾディアック」と名乗った.さらに,紙面でこのことを大きく取り上げなければ,10人以上を殺害すると脅迫文には述べられていた.暗号文は雑多だった.占星術の記号からモールス信号,ギリシャ文字,気象学の記号などが一定の法則で羅列されていた.その暗号文を解読したのは,サンフランシスコの南160キロにあるノース・サリナス・ハイスクールで社会科を教える一教師だった.複雑な代理コードを根気よくはめ込んでいく作業を妻と一緒に続け,この教師は驚くべきことに,20時間のうちにほぼこれを解読してしまった.暴かれたメッセージには,ゾディアックの凶悪さと異常さが示されていた.

 オレハ人間ヲコロスノガ好キダスゴク面白イ森デ野生ノ動物ヲコロスヨリズット面白イ人間ガイチバンキケンナ動物ダカラダ

 ダレカ殺スノガ一番ゾクゾクスル経験ダ女ノ子トヤルヨリズットイイイチバンイイコトハオレガ死ンデパラダイズデ生マレカワッタトキオレガコロシタニンゲンヲゼンブ奴隷ニデキルコトダ オレハ名前ナンカオシエナイオマエタチガジャマシテオレノ死後ノ奴隷ノカズヲヘラソウトスルカラダ  *1

 犠牲者が翌年にかけて続出し,1974年にサンフランシスコ警察にゾディアックの筆跡で「37人を殺した.すさまじいことをやらかしてやる」と書かれていたが,その4年後にゲームの終結を一方的に告げる手紙を『クロニクル』紙に送りつけ,以後ゾディアックは警察とメディアへの接触を一切断った.事件から30年以上が経過した現在も,犯人は確保されていない.いまだ未解決の事件なのである.

 黄色は不安定の色だ.眩いほどの明るさをもたらす代わりに,イスカリオテのユダJudas Iscariot)の衣の色でもあった.ここから,黄色は卑劣な裏切り,スケープゴートを意味する色として,ヨーロッパでは忌み嫌われている.

 ゾディアックとは何者だったのか.少なくとも警察やメディアに対しては饒舌な男で,1969年当時,25-35歳くらい,ちぢれ毛で中背,小太りということは判明している.殺害を免れた被害者の証言により,似顔絵も作成されたのだが,自己顕示欲の強さが疑われるこの事件は,犯罪史上に残る「劇場型犯罪」の先駆けともされた.

 ゾディアックは,いつのころからか獲物を求めて,サンフランシスコのベイエリアを徘徊し続けていたのだろう.犯行声明と暗号を新聞社に送りつけ,ジャーナリストたちはこぞってゾディアックの分析を試みた.その中に,漫画家でジャーナリストのロバート・グレイスミス(Robert Graysmith)がいる.劇中ではジェイク・ギレンホール(Jake Gyllenhaal)が演じている.グレイスミスは,『サンフランシスコ・クロニクル』の風刺漫画を担当していたが,独自に捜査を開始すると,この事件にのめりこんでいく.彼は8年かけて『ゾディアック』という本にまとめあげるが,その間に2度目の離婚を経験し,妻と子に見離された.

 グレイスミスは,捜査担当のトースキイ(David Toschi)に接触する.これを演じたマーク・ラファロ(Mark Ruffalo)がすばらしい.また『クロニクル』の新聞記者,ポール・アヴリー(Paul Avery)は事件を追跡するが,ドラッグで身を持ち崩しリタイア.トースキイも3年,4年と時間が経過するにつれ,ほかの事件も管轄しなければならない事情から,ゾディアック事件だけにかまけてはいられない.ラファロはそのジレンマを微妙な表情でうまく演じ分けている.

 ただ1人,事件の戦線を離脱しなかったのがグレイスミスだった.なぜ,彼がそこまでゾディアックにのめりこまなければならなかったのか?ギレンホールもそれについて不思議に思っていた.そこで,フィンチャーに尋ねたことがある.「なぜ,グレイスミスはこんな行動に出たのだろうか」と.フィンチャーは答えた.

執着とは,分からないことを絶対に知ろうとすることを意味する.ところが,この事件は分からないことだらけで,知りたがる人をつぶそうとする破壊的な側面もあった

 ゾディアックは今でも,現地住民の間で語り継がれている.それは健全な市民生活を破壊し,警察との鬼ごっこを楽しんで自由に振舞っている殺人鬼,という恐怖.ゾディアックの暗号メッセージは,カリフォルニア医療研究所に送られた.診断結果は次のようなものだった.

ゾディアックはおそらくひとり悶々と考え込むたちで,心の奥底には深い孤独感と劣等感が居座っている…中略…「相次ぐ手紙や電話は,自分を見つけてくれ,正体を暴き,追い詰めてくれ,と犯人が願っているしるしかもしれない.その時には,この誇大妄想狂はおそらく大見得を切って,みずからの命を絶つことだろう.これまで自分をないがしろにしてきた世間を見返すために」*2

 フィンチャーはこの作品で,珍しくコケた,とする論にときどき出会う.今回の映画で彼がとった手法は,重要なファクターの描出をばっさり切り捨てて,ほかの因子を丹念にこすりあげていったところにある.すなわち,殺人事件で本来描かれるはずの,市民の恐怖が十分描かれていない.その代わり,ゾディアックの犠牲となった被害者の恐怖の叫びはつんざくほどで,耳に刺さる.けれど,ゾディアックが徘徊しているサンフランシスコの街で,この異常殺人者と同居している市民の慄きはほとんど出てこない.むしろ一度興味をそそられた市民も関心を失っていく様子のほうに軸は傾いている.

 事件の被疑者についての描写もきわめて粗い.ゾディアック事件について,各地の警察が取調べを行った被疑者の数は,2,500人以上にのぼる.しかし,年齢,筆跡,体型,顔のタイプ,ゾディアックと裏付けられるべき情報の面から完全に一致する人物は現れなかった.

 最後に,事件の真犯人とは認められないが,最も疑わしいとされた,ある男を紹介しておこう.映画では,この男が限りなくクロ,ということで残念そうに幕を閉じる.その男の話だ.その青年は,それまでの被疑者の中でも唯一,当局がつかんでいる6つの殺人事件すべての現場近くにいた.人相は,作られた指名手配の似顔絵そっくりだった.

がっちりした体躯で,腕っぷしはめっぽう強かった.聞き込み捜査によると,ティーンエイジャーのころ5人の海兵隊員をたたきのめした逸話の持ち主だという.知能も高く,IQは135以上.化学専攻の学生だけに爆発物の知識も豊富で,一時在籍した海軍で暗号作成の手順も習っている*3

 風貌は似ているし,この男ならゾディアックの好んだ暗号も駆使できる.疑わしい材料はまだある.映画ではゾディアックブランドの腕時計をしていたが,それだけではなく彼の指輪にも“Z”マークがついていた.1973年には,心理学者が青年にロールシャッハテストを実施したところ,潜在的な暴力性と殺人的な欲求を見出すことができた.2度目のロールシャッハを受けたのは,それから5年後の1980年のことだ.児童に対する性的暴行で,1975年から3年間,彼は収容施設で過ごしていたからである.

 2度目のテストの結果,“Z”からはじまる単語が多くの図版から言語反応として飛び出した.このあたりの事情も,映画で追っていくべきだった.そうすれば,多くの関係者が今でも真犯人と信じている男に対する疑惑の眼が映画の中でも強まった.それをいまさら隠せということでもないだろう.

 1992年にこの男は心臓発作で死んだ.どうしても物証がみつからず,逮捕できないまま第一被疑者であり続けた人物が死んだのだ.もちろん,彼が犯人だとは確定していない.しかしながら,ゾディアックからの手紙が警察に最後に届けられたのは1978年.1974年から4年間の空白があった後,手紙を送りつけてから,ぷっつりとゾディアックは連絡をよこさなくなったことを思い出す必要がある.『クロニクル』紙に4年ぶりに届いた手紙には,こうあった.

 親愛なる編集者殿.

 こちらはゾディアック,おひさしぶり.

 私はずっとここにいた.

 市警察のトスキも切れ者だが

 私のほうが一枚も二枚も上手だ

 そのうち疲れて私にちょっかいを

 出さなくなるだろう.私が主人公の

 いい映画ができるのを待っている

 私の役はだれになるだろう.

 私はいまやすべてを支配している.

 ごきげんよう

   ご想像にまかせる  SFPD-0 *4

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: ZODIAC

監督: デヴィッド・フィンチャー

157分/アメリカ/2006年

© 2006 Warner Bros. Pictures, Paramount Pictures, Phoenix Pictures, Road Rebel

 

*1 http://yami.main.jp/zodeakku/zode.html

*2 タイム・ライフ編 ; 北代晋一訳(1995)『未解決殺人事件』同朋舎出版,pp.32-33

*3 前掲書,p.92

*4 前掲書,p.88