不世出の天才チェリスト,英国の伝説的国民的英雄のジャクリーヌ・デュ・プレ.その巨大な才能と家族愛,社会的モラルとのはげしい相剋,解決できない愛と苦悩の葛藤,それらのすべてがいま本書に昇華された――. |
美しい響きのフランス姓"デュ・プレ"は,イギリス海峡フランス沖のジャージー島出身者をルーツとする一族に受継がれている.1713年製ストラディヴァリウス “ダヴィドフ”を愛用した天才チェリスト,ジャクリーヌ・デュ・プレ(Jacqueline du Pré)の本格的な音楽活動は,1961年ロンドンのデビューから,1973年に多発性硬化症で引退するまでの13年間に限られている.彼女の数々のチェロ協奏曲(エルガー,バッハ,ドヴォルザーク,ディーリアス,ハイドン)名盤.その多くは,録音状態が劣悪な1960年代のものであるにもかかわらず,いかなる巨匠とも比肩しうる情感と躍動感に彩られている.
5歳になる誕生日の前夜,初めて楽器チェロを贈られたデュ・プレは,それを「バカでかい動物」と呼び,愛しそうに抱きかかえた.その写真も本書に収められている.天賦の才,と言葉でいうは易い.だが,その小さな体に秘められた才能は期せずして,一家の人間関係に陰を呼び込み,家族にあらゆる犠牲を強いた.その嵐がいかに激烈なものであったかを,デュ・プレの姉弟が交互に回想をつなぎ,一家のスキャンダルの暴露をともなう構成で本書に仕立てている.あるホームパーティーで,幼いジャクリーヌはチェロ,姉ヒラリー(Hilary du Pré)はフルート,何人かのアマチュア奏者でチェンバーミュージックを楽しんだときのこと.
和やかな演奏で終わるはずだったその場は,"天才"の演奏がアンサンブルを完璧に突き放し,瓦解させてしまった.奏者は次々に演奏を止めていく一方,チェロの音色が聴く者を魅了し恍惚に引きずり込んだ.しかし当の本人は演奏後,きょとんとしていたという.姉は妹の活躍により,自分の音楽的努力を否定され,姉妹の感情のもつれに長年苦しむ.光り輝く才能の背後におとされる「影」にとらわれた家族の苦しみは,想像するに余りある.本書は,原題"A GENIUS IN THE FAMILY"を直訳して出版することに腰がひけた出版元ショパン(現 ハンナ)当時の編集長の発案で,「風のジャクリーヌ」というどうでもいい邦訳タイトルとなった.
ところで,訳者は「訳者あとがき」で驚くべきことを書いている.「デュ・プレはほとんど練習しなかったようだ」.だから,〈天才は1%の才能と99%の努力から作られる〉という格言は,真実ではないことがわかる,と.この人は,デュ・プレの弟ピアス(Piers du Pré)の言葉「記憶している限り,ジャッキー(ジャクリーヌ)は,常に練習しているか演奏会を開いていた」と自分で訳したのではないのか?道理に暗いにもほどがある.たった一文でも,すぐれた評伝を台無しにするには充分.謬見とはそういうものだろう.
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Title: A GENIUS IN THE FAMILY
Author: Du Pr'e Hilary, Du Pr'e Piers
ISBN: 4883641325
© 1999 ショパン