■「間違えられた男」アルフレッド・ヒッチコック

間違えられた男 [Blu-ray]

 妻ローズの歯の治療代を工面すべく,保険会社へと借金に来たバンドのベーシスト,マニーを見て,窓口係は非常に驚いた.以前保険会社を襲った強盗に瓜二つだったのだ.警察に連行されたマニーは,筆跡鑑定でも無実を証明できず,事態は彼にとって不利な方へと進んで行く….

 日,某所であなたを見ましたよ.いや,声をかけようと思ったんですけどね,随分急いでいるようだったので,やめたんです――こういった話を聞かされたことが,幾度かあった.それなら遠慮などせずに挨拶をいただきたかったと思うものだが,まったく身に覚えのない場所で見かけたとなどいわれると,いい気はしない.確実に,それは他人の空似であって気味が悪い.仮に,自分と瓜二つの人間が悪人で,偶然が重なり他ならぬ自分が容疑者に祭り上げられたら――想像だけで背筋が寒くなる.

 本作は,アルフレッド・ヒッチコック(Alfred Joseph Hitchcock)の作品の中でも異色である.派手さはないものの,マックスウェル・アンダースン(Maxwell Anderson)が「ライフ」誌に発表した実話「クリストファー・エマニュエル・バレストレロの実話」に基づき,1953年に起きた実際の事件の日付,主要人物,事件の発生場所をロケで再現している.善良な一市民が,銀行強盗犯に「確信的」に疑われ,それが「断定」されるまでおよそ数分.陰謀はなく,計画の首謀者も存在しない.

 ただ銀行員,取調べの刑事,裁判員陪審員と誰もが良心にもとづいて行動し,マニイとその妻の平凡たる人生を翻弄するのである.動的なサスペンスは期待できないが,見えない糸に徐々に絡めとられていく夫婦の恐怖から絶望へのルートは,迫真に満ちている.よくよく見れば,マニイと真犯人の風貌は瓜二つとまではいえない.しかし,服装と雰囲気が酷似していた.2人が並ばなければ,その違いも明瞭には判別できない.ここに,際立った恐ろしさがある.あまりの精神的圧力に,その均衡を失った妻は,冤罪が晴れてからも永らく苦しむことになった.

 二次被害に対し,国家はなんら補償するものではない.あまりに現実的かつシリアスな経過は,手に汗握るサスペンスの素材としては適格ではないかもしれない.しかし,やはりヒッチコック・フィルム.独房に収監された個性的なカットバック,狂気に魅入られていく妻の姿態描写は,やはり非凡の域にある.現実の事件をモチーフにした映画は,ヒッチコック作品では本作のみである.それを表明するように,恒例・ヒッチコックカメオ出演は控えられている.

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原題: THE WRONG MAN

監督: アルフレッド・ヒッチコック

105分/アメリカ/1956年

© 1956 Warner Bros. Pictures