原題の「シンポシオン」とは「一緒に飲む」というほどの意味.一堂に会した人々がワインの杯を重ねつつ次々にエロス(愛)讃美の演説を試みる.最後に立ったソクラテスが,エロスは肉体の美から精神の美,さらには美そのものへの渇望すなわちフィロソフィア(知恵の愛)にまで高まると説く.さながら1篇の戯曲を思わせるプラトン対話篇中の白眉――. |
飲み食いは単に,肉体の維持にかかわるものではなく精神の糧として,重要な意味を持っている.さらに食後に気心のしれた友人と寛ぐことほど,気持ちのよいことはない."Symposion"とは「酒を酌み交わす集い」.客をもてなすための宴会を意味する「饗宴」というよりは,酒を交わす時間を愉しむ「酒宴」の方が意味としては正しい.しかし,言葉の格調の高さでいえば,やはり「饗宴」に軍配が上がるだろう.
プラトン(Πλaτων)中期対話編の一として高名な本書だが,それは『パイドン』『パイドロス』にも並ぶほどに讃えられる.シュンポシオンは,この頃のギリシャでは日常的に催されるものだった.本書でもそのことが伺われる記述がある.前日の饗宴から二日酔いになっている者も結構いて,今日の饗宴では特に無理をさせず,好きなスタイルで酒を飲み,順番に「エロス(愛)」についての賛美論を演説する.本書に2つの副題があることは,意外に知られていない.「恋について」および「善きものについて」というのがそれなのだが,多くの邦訳ではどちらも削除されている.これは,アリストテレス(Αριστοτaλη)が『政治学』で「恋に関する言論の中でアリストパネスが言っているのをわれわれは知っている‥‥」と述べていることを受け,重複を避けた訳者の配慮が働いているためという.
これはアリストパネス(Aristophanes)が本書で演説していることを指す.だが,本書はプラトンの著作の中で最も異例なスタイルをもとっている.まず,本書は第3者からの間接的な報告がなされる形をとる.しかもその報告者は,直接事実を目の当たりにした者ではない.またさらに,事件に直接係わった者がいて,その人物から又聞きしたことを語りだす,という風にその構成は複雑きわまる.アリストデモスが数年前,悲劇詩人アガトンの優勝祝賀会で設けられたシュンポシオンに参加した折,「エロス」についての議論にいろいろな人が加わった.この話をアリストデモスから聞いたアポロドロスが,今度は自分の友人たちに話すというわけである.ちなみに,アガトンがその悲劇最初に優勝したのは前416年のことなので,この時のシュンポシオンも同年に行われたことになる.この年は,ソクラテスが45歳の時であったと考えられている.
本書の執筆時期は,プラトンの中年期にかかると見て間違いない.つまり,『国家』『パイドロス』『パイドン』『パルメニデス』等の著作が生み出された時期である. この年代は,プラトンが生涯で「イデア論」を華々しく展開させた時期にあたり,イソクラテス(Isokrates)の影響を受けて文体を変化させていった頃だ.思想家にして詩人,そして芸術家としてもプラトンが高みを極めて行った時期であることに異論はなく,全対話篇中,最もプラトン的(platonikotatos)と呼ばれる本書は,確かに他の作品群を圧倒している.内容を検討してみると,本書は序,第1部,第2部,第3部,結び,の5段からなる.核心部分は,序と結びを除いた部分である.パイドロス(Phaedrus)に始まりアガトンに終わる5人の演説の第1部は,演説者がエロスの賛美に終始して循環する.それぞれの賛美論には興味を引かれるところはあるが,対象の事実認識に即していないことが,第1部終わりの部分でソクラテス(Σωκράτης)からの批判によって明らかにされる.
表向きは,この批判はアガトンに向けて行われたものだが,実は5人すべてにあてはまる.批判の要諦はこうであった.まず彼らに賛美論の認識そのものが不十分であると知らせることにあった.対象の本質の認識が十全でなければ,賛美の前に評価などできず,そのためには事実の上に正しく立つことが肝要である.第1部は,認識力の重要性をソクラテスが明らかにして総括する.根拠なき単なる意見の羅列は,学問的に貢献しないことを批判して終わる.第2部は,問答法的形式で進められる.ここではエロスの本質を探るため,また把握するための対話が続く.アガトンとソクラテス,ソクラテスとディオティマ(diotima)の問答は,エロスを欲求ととらえ,ディオティマの説話によって「欲求の質」ということが問題の焦点に移っていく.エロスの質は「善きものへの欲求」として,性と種族の存続という下位のエロスと,子の出産に伴う「不死」の獲得によって,高められていくのである.プラトンがここにきて,エロスの本質的な飛躍に到達したことが明かされる.
最高認識という理想を求めてやまない人間の本性は,エロスがあってこそのものである.超越的な美,善,感性を人間社会に具現しようとする時,人間は理想の実現にふさわしい言動を取らねばならなくなる.とすれば,エロスは人間の社会的政治的活動を善き方向へ導く熱情ともなる.エロスの翼にまたがって人類は飛翔し,美のイデアのイデア性により,永遠に理想を追求する人間という存在は,心的な実在に帰一して他の心霊を教導するというわけだ.
第2部をもって,エロス賛美は頂点を極めたことになっている.第3部はアルキビアデス(Alkibiades)の演説によるソクラテス賛美に移る.第1部と第2部の愛のイデアが繰り広げられた緊張感に比べると,この第3部はいささか弛みが感じられないこともない.アルキビアデスは若くしてソクラテスに傾倒した男であるが,国家に反逆した罪でソクラテスが断罪された時には,しばしば引き合いに出されるようになった.世間を惑わし,国家の認める神々を信じようとせず,他の新しい神霊(ダイモニア)を若者に吹き込んだことを咎とされたソクラテスは嘲笑される.他方,結局は俗界の誘惑に負けてソクラテスの下から去ったアルキビアデスは,「恐るべき子」として注目を集めた.もっとも,ソクラテス自身は正式な弟子を生涯取らなかった.
本書は,さまざまな論者のエロスの説話と討論が非哲学的なものから,ソクラテスの批判と修正により哲学的なものへと説かれていく過程が,さながら戯曲のように編みこまれていくのが実に面白い.さらに,論者の個性が消されることなく,互いに主張しているのがいい.特に,喜劇作家アリストパネスの演説から生まれた比喩は,人口に膾炙した最も有名な部分であろう.
アリストパネスは愛の起源を説き,その昔人間には男と女,さらに男女(おめ)(アンドロギュノス)の三種類があったと述べている.このうち両性具有のアンドロギュノスは,全体として球形,回りを背中と横腹が取り巻き,手足はそれぞれ四本,顔は二つであった.力強く,おまけに驕慢で,神々に反抗を企てたため,主神ゼウスはこれを二つに割き,男と女とした.(その時の切り口を四方八方からまとめて閉じた跡がヘソである).
この子孫である男と女は,それぞれ昔一体であった相手を求めるのであるが,その相互の求めがエロス(愛)であり,この愛は人間本来の姿に戻ろうとする衝動なのである *1
アリストパネスの譬話は,不完全なものが完全なものへの憧憬と追求を図る,ということに尽きる.失われた本来の完全性を復活させるため,互いに短所を補う相手を求め合う.要するに,不完全な現状を全きものにするためには,理想追求の努力が必要である,と考えることにある.この説は,第2部でなされるディオティマのエロスの下部構造と上位構造,それらを踏まえた人間の心的帰一によって完成される.ソフィストのレトリックも種々の演説と合わせて,燦然と輝くものであるが,やはり本書の根底には,ソクラテスの弁明が意図されている.本書が『パイドン』と対比させて論じられることが多いのは,エロスを扱う本書が「生ける芸術」であるのに対し,『パイドン』が魂の不死を扱う「死の書」であるためだ.不滅の魂は,肉体が滅びることで止揚される.生き生きとしたソクラテスの姿は,生の歓びを識者とともに云々する本書において絶妙に描かれる.死を目前にした師の魂の高潔さを訴える『パイドン』は,ソクラテスの思想を啓蒙する絶対不可欠な書だったことは,誰にも否定されない.
本書はそれと対立するどころか補強しあう意義をもっている.プラトンは生に向き合うソクラテスの姿を書に残し,世に問うことが師の哲学的思想を啓蒙することと信じていただろうということだ.プラトンもまた愛智者(philosophos)としてプラトン的に美と善を追求し続けた.ここに徳と知が加わり,本書はエロスの書であると同時に,ソクラテス弁明のもう一つの書でもある,と理解することが自然なように思われる.ただし,真に優れた作品が常にそうあるように,本書も容易な分類と詮索を超えた位置にあることは疑えない.
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Title: ΠΛΑΤΩΝΟΣ ΣΥΜΠΟΣΙΟΠ
Author: Πλaτων(Platon)
ISBN: 4003360133
© 1965 岩波書店