恋人モリーと幸せに暮らしはじめた矢先,暴漢に命を奪われたサム.だがその死は陰謀によるものだった.サムの魂はこの世にとどまり,インチキ霊媒師の力を借りて,愛するモリーを守ろうとするのだが…. |
ジョフリー・バレエやハークネス・バレエでダンスを学んだパトリック・スウェイジ(Patrick Swayze)の訃報.多くの人はこの映画を想起したことだろう.軽やかなステップを踏むようなスウェイジのウォーキングと,彼が演じた誠実な青年サムの死後の奮闘.恋人の安否を気遣う浮遊霊となり,肉体を失ったことで物質に「触れ」られる理(ことわり)から弾き出された存在となっても,作品の中で健在だった.不慮に思えた自己の死を受け入れることができず,恋人にメッセージを伝えるまでは,天界の迎えに応じることができない.災いによって切り裂かれる男女の愛という手垢に塗れたテーマを描くため,本作では単純化した性格付けの人物と,それらを配した明解なプロットを徹底している.いま見直してみても,そのスリムな無駄のなさが,シンプルなメッセージを真摯に,ひたむきに訴えてくる.
銀行員のサムは,恋人のモリーと幸福な同居生活を始める.ある晩,結婚を望むモリーに,サムは煮え切らない態度を示す.その2人を暴漢が襲い,モリーを守ろうとしたサムは命を落とす.天国からの迎えをサムは拒み,独りになってしまったモリーを見守る霊となることを選んだ.ほどなく,サムは自分を殺した男を目撃し,その男がウィリー・ロペスという名であることを知る.しかし,魂となって浮遊するサムには,生身の人間にどうあっても真実を伝える術はない.霊媒師オダ・メイの館を通りかかったサムは,デタラメを並べて来談者から金を巻き上げるオダ・メイを叱責.すると,誰にも聞こえないはずのサムの声にオダ・メイは反応した.サムは彼女を説得し,モリーとの伝令役をオダ・メイに強要する.モリーは,傷心の自分に付け入る霊感商法ではないかと当然警戒するが,サムと自分しか知り得ない情報を聞かされることで心が動く.
当たり前のことだが,死後のことは誰にもわからない.死ねば人のすべては無になる説,肉体は滅びても,強い思いや魂だけは残留しているという説,人によりそれぞれ説得力を感じ取れる.信仰の是非はともかく,確実なことは,故人に対する幾多の思いや感情を,その後も家族は抱えながら生きるということだ.死を隔て,別たれた人と自分との関係を再構築するための儀式という意味で,葬祭は極めて重要な社会的意味を持っている.無宗教である人も,大切な人の他界に伴ってその人だけが持っていた「空気感」「雰囲気」が,即座に消滅したとは考えない.仏教の場合,他界した日から数えて7日目を初七日と呼び,49日まで7回の忌日を設けている.それを境に,彷徨っていた魂が成仏するという考えを取る.遺族は,故人が極楽浄土に行けるように法要を営むのである.西洋の葬祭文化には,成仏にあたる考えはそれほど強くはない.しかし,追悼ミサや鎮魂歌(レクイエム)は,神の下に召されていった家族の魂の安息を願うものであり,本質的に仏教における供養目的と差異はない.
急死直後,サムに降る天からの光は,現世に留まる「猶予」を彼に与える.その限られた時間内に,サムはなすべきことをなす.この考え方は,追悼ミサや記念集会の営みを細かく定めることがないキリスト教というより,忌日を厳密に定める仏教に非常に近い.日本公開に際して,本作のサブタイトルは「ニューヨークの幻」とされたが,時が来たら善人は成仏し,悪人は地獄に送り込まれるという設定,これは安易なようで,実は結構,サブタイトルが表現できていることなのである.現世と幽世は,異質な理で成り立っている.突然の死を迎えたサムは,死を受け入れることができずに現世に留まるが,霊の「宿命」を理解するのに時間がかかる.それを説明するのに,様々な亡霊たちがサムに知識を与えてくれる.この流れが,何より印象深い.病院内では,普通の人間と同じように病室や廊下を徘徊する霊たち.あるいは,自分を殺した犯人を追い求め,永遠に地下鉄を彷徨い続ける地縛霊.その哀しい姿を描きながら,サムが現世に長く留まり続けるならば,彼と同じように永久に苦しみ続けるという冷酷な幽世の“掟”を,鑑賞者に教えている.
地縛霊の男から「念力」で物体に触れる極意を伝授されたサムは,モリーを守るために能力を活用しようとする.触れたくとも触れることのできないもどかしさ,焦燥感は繰り返し場面に登場するが,陶芸の轆轤(ろくろ)に触れながらモリーと愛を交わすシーン,生前にカールとエレベーター内で語る何気ない会話,つまり「人に接触してはならない感染症」のジョークにその伏線は張られている.技術的な面に目をやると,CGが発達していなかった時代,合成処理だけで物をすり抜けるシーンを作っているが,かなり好印象だ.ILMの担当した特殊効果は,よく工夫されて違和感を消し去ることに成功している.どう考えてもSF主体の映画ではないのだが,「どうしてサムは歩くときに足音を響かせるのに,物体に触れないのか」「椅子に座れるのに手で触れられないのはなぜ」「幽霊なのに影があるのはどうして」など,小学生かと問いたくなるような疑問が,批評の場でも公然と繰り返されることがある.空気を読みましょう.それでなくとも,人間には見えない霊を威嚇する猫,冒頭で上から吊るされる天使の彫刻,そして白眉の一セント銅貨.これら小道具の使い方の巧みな映画なのであり,最後には別れを惜しむサムとモリーの愛の賛歌に終わるのだから.
ウーピー・ゴールドバーグ(Whoopi Goldberg)は,オダ・メイ役で一気に知名度を高め,「天使にラブ・ソングを…」(1992)で完全に自分のキャラクターを確立した.騒々しくて煩悩にまみれているが,悪党にはなりきれない人情家.優れた漫才師が司会技術を磨きあげるのと同じく,スタンダップ・コメディの舞台で培った技術が,彼女の演技には生きている.スウェイジのフットワークの軽さは,ダンス講師の親ゆずりであったかもしれない.本作は,間違いなく彼の代表作の1つである.そして,役者にとっての代表作とは,どれほど昔の映画であっても,それを強く記憶している人がいる限り,演じた役にどこか俳優の人生を重ね合わせてイメージするものだ.本作を記憶するたくさんの人は,彼の訃報を聞いて,本作の内容に関する考えがちらりと頭をよぎったことだろう.それにしても,モリーはこんな体験をしてしまったら,とても次の恋愛などできはしないのではないか.もっとも,可憐に演じたデミ・ムーア(Demi Moore)も中年期以降,鬼気迫るサバイバーぶりには男も逃げる――これは別の話だった.
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原題: GHOST
監督: ジェリー・ザッカー
127分/アメリカ/1990年
© 1990 Paramount Pictures