▼『死の貝』小林照幸

死の貝

 米粒ほどの巻貝に潜む虫が,かつて日本各地の人々を死に至らしめた.それは世にも恐るべき奇病であったが,日本はこの寄生虫を駆逐した唯一の国である.日本住血吸虫症を撲滅した,官民一体の知られざる奮闘を描く――.

 州地方北部を東から西に流れ,有明海に注ぐ筑後川は,国土交通大臣が国民経済上特に重要と定める一級水系である.福岡県久留米市宮の陣町荒瀬,筑後川宝満川沿いに,見落としそうになるほど小さな碑がある.2000年3月に建立された「宮入貝供養碑」である.ミヤイリガイ(宮入貝)とは,淡水に生息する巻貝の一種である.殻の高さ7mm,幅2.5mmほどの小さな貝で,水田の溝や川の浅瀬の底に棲む.関東地方(利根川流域)から九州北部(筑後川流域)にかけて分布するミヤイリガイは,それ自体,ヒトや哺乳類に害をなす存在ではない.しかし,ミヤイリガイの体内には多くの寄生虫が巣食い,日本住血吸虫の中間宿主として人間を脅かし続けてきた.

 淡水産巻貝ミヤイリガイを媒介する日本住血吸虫症は,甲府盆地底部一帯,広島片山地区,筑後川下流域など農水利用される6つの地域,水系で猛威を振るった.本書は,日本住血吸虫症の感染経路と病原の解明,中間宿主の特定,診断法や治療法の開発,予防法の確立及び啓発活動,感染源対策としての撲滅活動,終息宣言に至るまでの110余年を描く.「風土病」を制圧するまでには,地域的には宿痾とされてきたことに対する罹患者の諦念も根強かったが,医学研究者や郷土医らが世代交代しながら,粘り強く研究を蓄積した.人の生命の機構を解明する医学において,得られた知見を官民一体の協働をもって社会事業的に適用し,ついには1つの風土病を撲滅することに成功した臨床事例と理解されよう.

 住血吸虫症は,成虫が静脈内に寄生することで生じる寄生虫症である.ミヤイリガイを中間宿主とし,河水に入った哺乳類の皮膚より吸虫の幼虫(セルカリア)が寄生,成虫へと成長した吸虫は雌雄一対で肝門脈内部に留まる.血管内で生殖産卵を行い,肝硬変により発症者は妊産婦のように腹部に水が溜まる症状を呈し,衰弱していき合併症を起こして死亡する.江戸時代末期の漢方医・藤井好直による「片山記」は,この病に苦しむ広島県深安郡神辺町川南の人々の最古の学術記録である.人間だけでなく,牛も馬も同じように何十頭も死んでいる.何が原因か分からない,とした片山記から半世紀以上経過しても,原因も治療法も不明という状況が続いており,風土病患者は差別にもさらされていた.

 幕末のころには,甲府盆地で定着した諷刺があった.「水腫脹満 茶碗のかけら」(この病にかかると,割れた茶碗のように廃人同様となる).「夏細りに寒痩せ,たまに太れば脹満」(夏も冬も痩せ細るほど貧しいのに,この病にかかると腹が膨れて太っている).1897年に,この病気で死亡した女性患者の篤志献体解剖が行われ,肝臓等に虫卵が発見される.1904年,岡山医学専門学校(現岡山大学医学部)病理学教室の桂田富士郎らにより,日本住血吸虫(原虫)が発見される.1909年,日本住血吸虫の生活環は,片山地方の開業医・吉田龍蔵,京都帝国大学医科大学・藤浪鑑らがウシを用いた実証実験により,経皮感染を証明した.1913年,中間宿主ミヤイリガイが宮入慶之助によって発見され,この発見により地方病の原因は全て解明された.

社会を根底から支える農業従事者が最大の犠牲を被る日本住血吸虫症.といっても,農作業をしなければ飢えるのみである.他県への移住をする貯えもない.農作業に従事する彼らの胸中にあるものは,葛藤などという生易しいものではなく,将来の明るい郷土のために自らの生命を捨てる殉職者の心境にも等しいといえた

 ミヤイリガイは,1923年の駆虫薬スチブナール開発,1925年の生石灰散布による殺貝活動で,減少し始めるが,それ以前の1917年頃には,地元住民による「拾い集め」が始まっていた.3mm前後の小さな貝を,手作業で拾い集めるのである.しかし,繁殖力の強いミヤイリガイを駆逐するには程遠く,それどころか,1匹のミヤイリガイ体内に寄生するセルカリアは,数千匹にまで増殖可能であった.公衆衛生的には,マラリアに次いで2番目に重要な寄生虫症とされた住血吸虫症の恐ろしさは,ここにあった.一方で,住民の意識面の変化は,非常に大きな意義をもった.

 かつて小作農民の生業病,甲府盆地に生まれた人間の宿命とまでいわれ,県の医療関係者が流行地で水に触れないよう彼らに指導しても,「風土病が怖くて百姓ができるかッ!」と息巻き,「あんたらは風呂のある家に住んでいるからそんなことが言えるんじゃ!」と反発した彼らも,日本住血吸虫症の感染経路が明らかになり,対策により予防が可能な病気と判明してからは,わが子らを水に浸かる作業からは遠ざけ,農業以外の道で生きてほしいと願うようになる.その意識改革は,行政や研究者からの指導一辺倒では実現できないことである.後にGHQからの視察者も感心したという,児童への予防啓蒙冊子『俺は地方病博士だ』発行と配布(1916年).1953年,山梨,佐賀,福岡,広島,岡山の5県知事が日本住血吸虫症の有病地知事会を結成し,日住病全国有病地対策協議会を発足させ,各県持ち回りで報告の機会を設け地域互助的な対策に乗り出したこと.昭和に入り,山梨県知事鈴木信太郎より,地方病予防撲滅費国庫補助申請書が内務大臣望月圭介宛に提出され,寄生虫病予防法施行細則および有病地指定の告示がなされたこと.ミヤイリガイ駆逐のため,殺貝剤が生石灰へ,さらに石灰窒素,溝渠コンクリート化の法制化で渠コンクリート化工事が開始されたのは,1955年からの高度成長期に重なっている.そのことの意味もきわめて大きかった.

 日本国内における最後の新規感染者は,1978年である.1985年にはセルカリアに寄生されたミヤイリガイは全く見られなくなり,山梨県知事による「地方病終息宣言」が出されたのは,1996年のことであった.九州筑後川流域での終息宣言は,2000年である.藤井好直が著した『片山記』から153年が経過していた.

寄生虫病を克服するには,教育活動や啓蒙活動を活発に行い,衛生思想も高めなくてはならず,文化,宗教,慣習の違う各国で展開できるかということも問題となる.日本で寄生虫病が制圧されたのは,官民一体となって「克服するんだ」という情熱があったからである

 住血吸虫症は,日本特有のものではない.1955年,日本から派遣された訪中医学団は,周恩来からシーチチュン(血吸虫病)の対策を尋ねられている.国交正常化を待たずして,中国でのミヤイリガイ殺貝や技術援助が約束されたが,中国の農地は気が遠くなるほど広大である.ミヤイリガイ産卵を防ぐコンクリート配備を巡らせることは困難,また予防に必須となる中国農民の意識改革の壁は,日本とは比較にならないであろう.他国では,亜種も含めた吸虫症はフィリピン,インドネシアカンボジアラオス,さらにマダガスカルを含むアフリカの地域,アラビア半島,アフリカ以北のエジプト,リビアスーダンソマリア,マリ,セネガルモーリシャス,ブラジル,ベネズエラなど広範囲の分布が確認されている.その惨禍は,世界保健機関の推定によると,世界中で2億人が罹患,7億人以上が感染リスクにさらされており,毎年20万人以上が合併症で死亡している.日本は,住血吸虫症の撲滅を可能にした世界で唯一の国なのである.しかし,そのためには,本来は無害であるはずのミヤイリガイを絶滅寸前に追い込むことが必要だった.

 現在,ミヤイリガイは千葉県小櫃川流域,山梨県甲府盆地北西部の一部を除き,生息が確認されていない.絶滅危惧IA類(CR)(環境省レッドリスト)指定種となっている.2000年の九州地方の終息宣言に合わせて,久留米市に建立された宮入貝供養碑には,「我々人間社会を守るため筑後川流域で人為的に絶滅に至らされた宮入貝(日本住血吸虫の中間宿主)をここに供養する」と刻まれている.人間の都合で,人為的に駆逐されたミヤイリガイもまた,悲劇的な運命を辿ったといわねばならない.本書で描かれた日本住血吸虫症撲滅の歴史は,農村医学,都市医学,産業医学を含む社会医学の性格が色濃く現れている.

 懸念されるべきは,若い世代を中心に,この奇病について無知な層が拡大しており,かつて利根川富士川筑後川に素足で立って農作業に従事することが命懸けであった時代,その記憶が薄れつつあることである.さらには,終息宣言が出されたものの,ミヤイリガイは地球上から消えたわけではなく,河川のメンテナンスを怠れば,再び住血吸虫症が復活し,流行する可能性は皆無ではない.病を制圧することへの賛歌は,人間の尊厳を高らかに表明することでもある.先人から受け継がれてきた英知を認めつつ,「自然」と「人間」が共存することへの畏怖や敬意を失うことの危うさも,等しく本書から読み取られるべき警句なのである.

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原題: 死の貝

著者: 小林照幸

ISBN: 4163542205

© 1998 文藝春秋