▼『I’m sorry, mama.』桐野夏生

I'm sorry,mama.

 私は,女の顔をした悪魔を一人知っているのです.その女のしたことを考えるだけで,ぞっとします.彼女の本当の名前が何というのか,今現在,何という名前を名乗っているのかは知りませんけど,もちろん彼女はまだ生存していて,人を騙し続けています.そして,へいぜんと人を殺し続けています.かつて女であった怪物たちへ,そして,これから怪物になる女たちへ捧ぐ,衝撃の問題作――.

 実の殺人事件をモデルにしながら,独自の規範を不文律とする冷酷な階級を描いた『グロテスク』『OUT』は,著者の小説としてまぎれもなく最高の域にある.深夜の弁当工場で働く主婦たち.そのうち1人の夫を殺害したのち,死体をバラバラに解体する逸脱行動における連帯.現実に生起した地獄と,作者の虚構として作品に照射される地獄は,どちらがより陰惨かを判定することなどできないほど強烈なものだ.現実に起き得ないことを安心させる“よすが”を読者に与えはしない,という語り部の矜持がそこにはある.誰しも,己の内部には獰猛な獣を飼っており,同時にそれを解放させないよう注意深く手綱を握った猛獣使いに管理を任せている.その手綱には,おそらくいくつもの種類と名前がある.

 それは理性であり,常識であり,規範であり,倫理であり,自尊心であり,他者への思いやりであり,自分の未来への責任感と我が身可愛さであり,行為のもたらす影響に対する恐怖心である.それらがかたく結えられた綱が,獰猛な獣の首には巻きつけられ,猛獣使いの鋭い眼下に置かれている.そうある「べき」なのである.この手綱は2色の重層で塗られている.1つには社会的強制力をともなった制度という色.行為に対する制度の適用,それは罪刑である.罰があるから罪になる.だからこそみんな我慢をする.そのおかげで,誰にも殺されずに生きてこられたはずだ.次に,この色をコーティングしているのが,「これを行えば次に何が起きるか」「起きた結果,どのような影響が生じるか」を推測する力という色だ.これは一般に「想像力」という便利な言葉で説明される.

 本書の主人公,アイ子の内部には,人並み外れて獰猛な獣が棲んでいる.そして,それを統御すべき手綱と猛獣使いが存在しない.そのような獣をいとも簡単に解き放つ.ゆきつくままに人からあらゆるものを奪い,殺し,逃走する.この3つの原理だけで動く“怪物”を本書は描いた.自己の獣を社会に向けて放つアイ子には,計画性など何もない.欲しいから,邪魔だから,危険だから――それが動機のすべてなのだ.アイ子には,思考することの不毛を捨て去る思い切りの良さが備わっている.なぜなら「面倒くさい」からだ.考えても仕方のないことを考えても無駄だし,それは自分にとって明らかに無駄なことだとアイ子は知っている.悟性(intelect)も理性(reason)も廃したアイ子には,感性(sensibility)すら麻痺している.殺人を犯しても何の感慨もわかず,概念や分析を行う力をも拒絶する.この人物は人間の「精神の総体」としての能力が欠落したソシオパス.想像力を掻き立てる描写の巧みさでいえば,著者は疑いなく卓越した技量がある.

 本書の冒頭でガソリンを登場人物の頭から浴びせかけ,躊躇なく点火する場面のおぞましさは,到底忘れられるものではない.人間の思考は,言葉で形成されていく.文学は言葉で構築されているのだから,作家の思考が縦横無尽に炸裂する世界が文学作品となっている.その想像力をもつことには,意外にもディバイドがあることが一連の作品に流れている.社会生活において格差が拡大し,規範が機能しなくなってくることを予見しながら,徹底して底流をあがいて泳ぎ切ろうとする人物は,いわば濁流でなければ生きることを許されない水棲生物.言葉は思考を現し,想像力は思考と感性を働かせることでしか身に着かない.それを乏しくさせることを余儀なくされる社会階層の人物を描く作者のまなざしは,冷徹にして現代社会の矛盾を見逃さない.そこに物語の姿をまとって立ち現れるのは,表面上は隠蔽されているこの社会に蠢く"邪悪"である.

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原題: I’m sorry, mama.

著者: 桐野夏生

ISBN: 4087747298

© 2004 集英社