▼『エミール』ジャン・ジャック・ルソー

エミール 上 (岩波文庫)

 「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが,人間の手にうつるとすべてが悪くなる」という冒頭の言葉が示すように,ルソー(1712‐78)一流の自然礼讃,人為排斥の哲学を教育論として展開した書.ある教師がエミールという一人の平凡な人間を,誕生から結婚まで,自然という偉大な教師の指示に従って,いかに導いてゆくかを小説の形式で述べてゆく――.

 間よ,人間であれ――あまりに有名な言葉は,ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の業績がかくも偉大でなければ,「お前にだけは言われたくはないよ」と,多くの人々が唾棄したはずだ.何しろ,本書のように教育学の古典を著す一方,この男は少年時代に強姦未遂で逮捕され,5人の実子を私生児として孤児院に入れ,マゾヒズムに耽溺し,知的障害者を虐待して妊娠もさせたのだ.だがイマヌエル・カント(Immanuel Kant)は『美と崇高の感情に関する観察』への覚書で,ルソーを絶賛し「人間の尊敬」を学んだ,とまで書いた.才人が人格者でなくてよいとしても,教育思想の大家として余りと言えばあまりな所業.

 本書は,人間は立派な者として生まれるが社会が彼を堕落させる,という根本命題に立って,理想的な自然教育の原理を述べる.自然礼讃,人為排斥の哲学を教育論として展開した.ある教師が架空の男児エミールという一人の平凡な人間を,誕生から結婚まで,自然という偉大な教師の指示に従って,いかに導いてゆくかの小説にして教育思想論.

わたしたちは弱い者として生まれる.わたしたちには力が必要だ.…中略…わたしたちは分別をもたずに生まれる.わたしたちには判断力が必要だ.生まれたときにわたしたちがもっていなかったもので,大人になって必要となるものは,すべて教育によってあたえられる

 ルソーの教育理念は,しばしば「消極教育」と表現される.この言葉を彼が用いたわけではないが,自らの哲学・宗教・教育・道徳・社会観を余すところなく盛り込み,「人工的な作為」を教育に持ち込むことを批判しているのである.「過保護にするな」「失敗を体験させよ」「怒りや指導を向けるな」,つまり「あるがままに,エミール(子ども)の成長を見守り,社会の規範を自然に体得させよ」ということである.成人するまで放任するというわけでなく,一定年齢に達すれば,教師とともに成長することが期待される存在として,子どもをとらえている.

万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが,人間の手にうつるとすべてが悪くなる

 幼児教育などの早期教育は人間の善を荒廃させるが,それ以後の教育ならば構わない.おそらく,人には生まれながらの美点が備わっており,自然の優位ということがこの発想の背景――性善説――にある.半分は正しく,もう半分は欺瞞である.

 1760年にリュクサンブール元帥のモンモランシー邸で完成された『エミール』原稿は,アンシャンレジーム期のフランスで『エミール』はパリ高等法院から禁書として認定され,パリとオランダで同じ1762年に出版された.匿名出版が一般的であった時代に,堂々と署名したのがまずかった.初版の贋物が出回り,真贋を判定するのに慎重な鑑定を要した.宗教と王権に背任した罪により,ルソーはフランスを離脱,スイスに逃れ隠遁生活を送る.晩年は孤独だった.

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原題: ÉMILE, OU, DE L'ÉDUCATION

著者: Jean-Jacques Rousseau

ISBN: 4003362217, 4003362225, 4003362233

© 1962 岩波書店