▼『エロスの解剖』澁澤龍彦

エロスの解剖 (河出文庫)

 ヨーロッパで使用された姦通防止用の奇妙な道具〈貞操帯〉に関するさまざまなエピソードを収集した「女神の帯について」.乳房に関する男性のエロティックな趣味の変化から,男性の〈乳房コンプレックス〉を考察する「乳房について」.ポルノグラフィーについてその豊かな知識を披露する「エロティック図書館めぐり」など16篇を収録した.エロティシズムをめぐるエッセイ集――.

 するヴェールに包まれて,聖なるものとされることもある.死や殺害と並ぶ禁忌とされる観念にもなりうる,エロティシズムを観念的に論じた16編のエッセイ.マルキ・ド・サドMarquis de Sade)を積極的に日本に紹介し,猥褻文書販売および同所持の容疑で1961年から9年間にわたり最高裁まで争った澁澤龍彦の功績のひとつが,エロティシズムの追求であった――結局は澁澤の有罪が確定,7万円の罰金刑となった――.精神や文明の暗黒面に光を当てた多彩なエッセイが耳目を集めたが,本書はそこに累をなすものとして避けて通れない.

 聖なるものに対する感覚と,エロスを感得するメカニズムはおそらく,わかちがたく結びついている.グレゴリウス1世(Papa Gregorius I)は「肉の罪ほどいかがわしいものはない」と述べ,アンドレ・ジッド(André Paul Guillaume Gide)は「性の快楽をもっとも味わうことができる人間は禁欲生活を送った人間だ」と言った.そうであれば,いかがわしくも快楽的な肉欲は,欲望の次元に埋もれ,理性的な人間性を失った時に披瀝されるもので,そのことが「エロティシズム」と呼ばれるものかもしれない.澁澤の思想は「エロティシズムは人間特有のものであり,動物にそれはない」とする.この発想は,ジョルジュ・バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille)のエロティシズム論を敷衍したものである.バタイユは,性を〈動物性における性〉と〈人間性における性〉に整理して説明を試みている.

 バタイユは,性が死や暴力と同じように恐れられ,タブー視される制約を内包したものと理解し,その制限(リミット)に服従させ,規範づけるものとしたが,強い恐れや嫌悪感があるために,あえてそれを破るところに性の独特な価値を見出した.禁じられていることを侵す行為に対する魅惑である.その甘味は,一種背徳的な後ろめたさからきている.バタイユの思想を好み,それを隠そうともしない述懐が本書には登場するが,テーゼとアンチテーゼの拮抗という意味では,西欧キリスト社会の「肉の罪」と「霊的生活」の対立と同じ構造を澁澤の思想もまた持っている.身体蔑視の考えは,古代のプラトン主義から受け継がれたものだが,そこに肉欲にかかわる罪悪感が教条的に律されるようになった.それは“身体の悪魔化”である.性の誘惑はジッドが述べたように,強烈な逆説をして霊的生活(高尚とされた精神主義)を阻むものとして警戒されたのであった.

 13世紀の女性神秘主義者として名高いマクデブルクのメヒティルト(M.Magdeburg)は敬虔な女性を花嫁に,慈悲深い夫を神に譬え,「花嫁神秘主義」とも称される主張を行った.それは寓意にせよ神をエロスの対象に据えるものだった.よって身体を軽視すべきと断罪し,欲望を悪魔のなせる業とする古代プラトン主義を受け継ぐ立場からの攻撃を受け,精神主義に仇なすものとされたのである.

 本書では,さまざまな人間の営みや世俗に対して,観念的なエロスがどうかかわっているかを筆者の視点から独自に論じていく.ヨーロッパで使用された〈貞操帯〉の効用,近親相姦(インセスト・タブー)の歴史的,聖書的解釈,サド=マゾヒズムを苦痛の代償としての快楽の視点からいかに読み解くかの論考,書き下ろしとして収録されている「マンドラゴラについて」は,妖術信仰の歴史と密接にかかわる魔の植物,マンドラゴラを例にとり,幻想を付された植物の伝説には,人の欲望を満足させるイメージが脈々と息づいていることが興味をもって示される.エロスの腑臓を巧みな執刀者が切り分け,存分に感じさせてくれる観念論.

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原題: エロスの解剖

著者: 澁澤龍彦

ISBN: 4309415512

© 2017 河出書房新社