異国への従軍から病み衰えて帰国した元軍医のワトスン.下宿を探していたところ,同居人を探している男を紹介され,共同生活を送ることになった.下宿先はベイカー街221番地B,相手の名はシャーロック・ホームズ.永遠の名コンビとなるふたりが初めて手がけるのは,アメリカ人旅行者の奇怪な殺人事件.その背後にひろがる,長く哀しい物語とは.ホームズ初登場の記念碑的長編――. |
57編(うち死後発表の遺稿一編)の“シャーロック・ホームズ”作品の記念すべき第一作.シリーズが『ストランド・マガジン』で連載され始めたのは,1891年.エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)が,『モルグ街の殺人』で超越的な分析力をもつ勲爵士C.オーギュスト・デュパンとその実地解説者「私」というパートナーシップを“推理小説”に位置づけた半世紀後である.多くの作家がポーの模倣を試み,失敗していったが,アーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle)も崇拝者の一人であった.形式を模すことはできても,オーギュスト・デュパンの怜悧な洞察力,桁外れの論理的分析力に比肩しうる人間はいない.本書でホームズがデュパンを侮る台詞を吐く件(くだり)は有名だが,ポーの路線をなぞるだけでは推理作家として二流以下に甘んじることになる.
それをコナン・ドイルは重々承知しているため,ホームズを通じて,敢えて挑発的な言辞を弄しているに過ぎない.解剖学,化学,数学,法律に詳しく,通俗小説にも明るい.一方,天文学,政治学,哲学には精通しておらず,分野によっては非常識なほど無知.外見は鉤鼻に身の丈6フィート強の痩身,角張った顎に鋭い鷹のような眼光.手先は驚くほど器用で,棒術・剣術・拳闘に優れる.バイオリンをよく奏し,安煙草を切らさない――ロンドンのベーカー街221Bに起居する名探偵ホームズは,かように詳細な説明で特異な人物像が描き出されている.コナン・ドイルは,人物の「造詣」を巧緻にすることで,痛烈無比なキャラクターの通俗化に成功している.ホームズに傾倒する“シャーロキアン”を熱狂させる設定の数々は,“シャーロック・ホームズ”が商業的に成功する要素となって知名度を高めた.
人生という無色の綛糸のなかに,殺人という緋色の糸が一筋混じっている.そしてぼくらの務めというのは,その綛糸を解きほぐし,分離して,すべてを白日のもとにさらけだすことにあるのさ
ホームズの能力,人品骨柄まで詳述した本書は,トリックは平明で劇的ターンなどまったく期待できない.しかし,第二部では殺人事件の背景がモルモン教徒の町ソルトレイクシティを舞台に,歴史小説の手法で述べられ,殺人の因果が白日の下に曝される.モルモン教の実態について,27歳のコナン・ドイルの先入観は偏見に満ちたものである.それでも,全体的にはミステリ史に残る演繹/帰納推理の見事さ,推理小説の正統な一つの典型を華美に演出するものであった.コナン・ドイルは開業医として23歳の時にポーツマス市,32歳でロンドンに診療所を構えるが,来診の患者があまりに少なく暇にかまけて「マイカ・クラーク」「白衣の騎士団」などを執筆した.歴史小説に関心を強めていたのとは裏腹に,本書がアメリカの出版社の編集者に評価され,『ストランド・マガジン』にシリーズ初の短編「ボヘミアの醜聞」が掲載された.
彼は算術としての医術,そのセンスを持ち合わせていなかったために,英米両国が主導する推理小説の寵児ホームズを産み落とすこととなったのである.ホームズの力量に感嘆したワトスンは,事件の顛末を手記でしたためる必要性,驚くべき人物の描き出す軌跡を世に伝えようと考える.ポーの明晰なプロットを下敷きに,コナン・ドイルの造型したインバネス・コートに鹿討帽の愛すべき名探偵は,推理小説の大衆化を一気に推進した.実在しないはずのベーカー街221Bには,現在もホームズとワトスン宛に,世界各国から続々と事件解決の依頼の手紙が届けられるという.
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Title: A STUDY IN SCARLET
Author: Arthur Conan Doyle
ISBN: 9784488101183
© 2010 東京創元社