人がもっとも無防備になる夢を見ている間に,潜在意識の奥深くに入り込み,貴重な情報を盗む“エクストラクト”.この危険な技術で世界最高の腕を持つ産業スパイのコブは,反対にアイデアの芽を潜在意識に植え付ける“インセプション”の依頼を受ける.このほぼ不可能とされる任務を成功させるため,コブは世界中からメンバーを厳選し,最強のプロフェッショナル集団を結成する.だが彼らがいくら周到に計画を立てようが,どれだけ優れていようが,計画を根底から揺さぶる“敵”の存在を,コブはひそかに感じ取っていた…. |
夢の多層構造を「視覚化」した本作の着想は,刮眼に値する.無意識の領域を題材にしたクリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)の独創性は,ハリウッドの商業主義をも呑み込む幻惑性がある.夢を無意識の創造物としたジークムント・フロイト(Sigmund Freud)の仮説をさらに発展させ,カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)は人類の精神に普遍的に横たわる「集合的無意識」という概念を提示した.本作は,夢の階層の深奥"limbo"で,集合的無意識に通じる世界観を表したかに見えた.コブとサイトーが陥った夢の最深部には,共通の象徴がある.海と砂浜に面した邸宅あるいは城.だがこの心象が全人類に共通するかは不明.後述の無意識世界「法則」に従っただけの可能性もある.
大企業家の御曹司ロバートの無意識に入り込み,彼に都合のよい夢を用意して潜在意識下に動機を埋めこむ「インセプション」は,困難をきわめる任務.その表層の裏―遂行過程―で,コブとサイトーはともに,自己の「意志」で最終的な意識の着地点に行き着く.意識は自己(Selbst)の元型に帰着すると仮定したユングは,「自我」こそが外界と交渉する主体になりうると考えていた.検証不可能な分野であるが,本作は,深層心理学理論の根幹に触れるポレミカルな素材を扱った.以下ネタバレ.
作中では,「現実世界」と4段階の「無意識世界(夢)」,さらにその下にあるのが「limbo界」.limboは“虚無”と訳出されているが,不適格.天国にも地獄にも行けない魂の集う場,が本来の意味.仏教でいう「ニルヴァーナ」に近い.コブらのチームにより遂行されるインセプションには,以下の法則がある.
【1】無意識の中で死ねば,現実に戻ってくる.
【2】無意識の階層を下るには,強い睡眠薬を使用する.
【3】"無意識の中の夢"で死亡すると,自我を失いlimbo界に転落する.
【4】無意識世界での時間の観念は現実世界の20倍.さらに階層を深くすれば等比数列的に増大する.
【5】現実の感触を得られる"小道具"で,いま自分が現実世界と無意識世界のどちらにいるのかを確かめる.
【6】無意識世界の"作為"には,インセプションチームの仕切り役が必要.
【7】上の階層での環境変化(揺れ,体勢,知覚の変動)は,下の階層の世界に影響を与える.
法則のもと,コブとサイトーらが組織したチームは,ロバートの深層意識にインセプションを仕掛けていく.しかし,無意識への干渉を防御する術を心得ていたロバートと,コブの無意識下に存在する「亡妻モル」「妻の死への悔恨」「妻の死を受け入れられない自我」が,生前の妻の幻影となってインセプションを妨害する.コブには妻殺害の容疑がかけられ,一緒に暮らせない2人の実子への罪悪感がある.それは「顔を見せない2人の子ども」となってlimbo界で戯れている.妻の幻影が現れコブの邪魔をするのは,主に第3階層と第4階層の無意識世界.
チームとロバートが強い睡眠剤で入眠する飛行機内(現実)
→ 飛行機の揺れに影響:橋から転落する乗用車(第1階層)
→ 転落する乗用車の重力軽減に影響:無重力状態から爆発するエレベーター(第2階層)
→ エレベーターの爆風に影響:雪崩を引き起こす雪山に建つ病院(第3階層)
*モルの幻影がロバートを狙撃
→ コブの潜在意識:海岸沿いの市街地
*モルの幻影がコブに「この世界の住人に」と誘いかけ,コブは拒絶.逆上したモルがコブを刺す
→ limbo界:第1階層で溺死したコブ,第3階層の銃撃で死亡したサイトーが到達.
*顔を見せない2人の子どもの幻影.老サイトーの構えた城.
limbo界でサイトーが老いさらばえていたことが重要な意味を持つ.彼は第3階層での銃撃戦で死亡し,自我を失いlimbo界で長年を過ごしていた.記憶を半ば失っていたサイトーに,コブは「現実に戻るんだ」と説得する.コブは,かつて潜在意識に入り込む“エクストラクト”で現実と無意識の境界を失った妻モルの説得に失敗,自殺させている.老サイトーが記憶を取り戻すのは,コブの言葉に触発され,「コブの犯罪歴を帳消しにする」と現実世界で約束していたことを思い出すため.現実世界ではチームの仲間が覚醒していることを期待し,コブとサイトーはlimbo界での「自殺」を試みる.第3階層で発見されたロバートの「金庫」には,ロバートの父親(会社の先代)の遺書とともに,親子の思い出の写真が保存されていた.父に対する確執が氷解し,「自分の信念で会社を動かしてよい」という確信を得たロバートは,今回コブがサイトーから受けた依頼「組織を受け継ぐロバートの手で,大会社を解体する」という動機が潜在意識化に植え込まれた.インセプションは成功したのである.さらに第4階層では,モルは設計士アリアドネに撃たれ,コブの腕の中で息を引き取る.コブの潜在意識が,妻の死を受け入れた暗示である.
limbo界のコブの思惑どおり,現実に帰還していた仲間が睡眠剤を中和,コブとサイトーを目覚めさせる.ゆっくりと眼を開けた2人が還ってきたのは,無意識,limbo界いずれでもなく明白な現実世界.コブの犯罪歴は,抹消するようサイトーが手筈を整えていた.アメリカの土を踏むことができたコブは,紛れもない現実に立っているということだ.無意識世界では決して顔を見せることのなかった子どもが,このうえなく明るい表情でコブに抱きついてくる.――これは幻影ではない.無意識世界で廻りつづける"小道具"トーテムがぐらついたところで,物語は幕を下ろす.
複雑かつ巧緻な映画を手がけるノーランだが,必ず一定の筋道があり,結末がある.スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)やアンドレイ・タルコフスキー(Andrei Arsenyevich Tarkovsky)の再来とも論評されることもある.賛否の批評は自由な観点から寄せられて然るべきだが,前二者の抽象表現と,ノーランの会得する手法は明らかに異質.潜在意識の表象<夢>と,現実知覚という意識の干渉の接点を,怜悧な算術を駆使し,意表を衝くアイデアで具象化せしめた映画と評価されよう.
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原題: INCEPTION
監督: クリストファー・ノーラン
148分/アメリカ/2010年
© 2010 WARNER BROS.ENTERTAINMENT INC.