■「荷車の歌」山本薩夫

荷車の歌 [DVD]

 1894年,明治.広島県三次山村の地主の屋敷で働くセキは,郵便配達人の茂市に想いを寄せている.紺の制服網走笠の茂市は二枚目なうえに,読み書きができるということで村から一目置かれる存在だった.ある日,セキは茂市から求婚された.田畑を持たぬ茂市と結婚することは認めない親からの勘当を覚悟で,セキは彼と一緒になることを決めた.茂市には荷車引きとして一本立ちしたいという夢がある.セキは茂市と一緒なら苦労も厭わないと思えたが….

 國連太郎は一時,鳥取の農協に勤めていたことがある.戦後すぐ,木下恵介の「善魔」(1951年)でデビューした26歳の時の役名が「三國連太郎」で,以後本名“佐藤政雄”ではなく芸能の世界ではこの役名を通すことになる.農民生活と明治・大正・昭和の移り変わりの連動,特に白眉とされるべきは,女性の生活軸と母権である.近代化と富国強兵政策に翻弄される農民の姿が迫真をもって丁寧に描かれていくのである.本作は自主上映運動の結果として製作・上映されることになった,いわゆる非劇場運動の先駆けとなった映画である.その運動母体となった農協婦人部は,テレビも上映機材も所有しない山奥の村へどこでも16mm機材を担いで出かけ,集落座談会を開き,映像文化を広める活動を地道に展開した.メガホンを取ったのは,当時独立プロであった社会派巨匠の山本薩夫,三國の競演に望月優子,新進女優の左幸子らが並んだ.その製作費用は,農協婦人部から一人10円のカンパで作られた庶民投資型の資金調達をとったのが最大の特徴だった.東京の九段会館は,戦時中は軍人会館だった.所轄は旧陸軍将校及び陸上自衛隊幹部自衛官の親睦組織であった偕行社である.ここで1958年,全国農協婦人組織協議会大会が開かれ,「荷車の歌」の製作が決定された.

 その頃,三國は映画出演料を巡って日活をクビになり,映画界から干されていた.当時,森永のキャラメル1個が10円だったため,これが1つのスローガンとなり,「荷車の歌」製作は進められたのである.しかし,カンパ10円では不足することになり,投資額はキャラメルではなく卵一個を出し合う額面になっていった.卵といえば当時の希少品である.三國自身が顧みるように,女性を悲しませ,苦しめてきた軍の施設で役者の演説がなされ,その言葉に大いに勇気づけられた婦人連が映画製作推進に力を与えた.この機運は,なにか歯車が噛み合うものをそれぞれの立場の当事者に感じさせるものだったに違いない.結局,全国320万農村婦人部の投資3,200万円を元手に,1年がかりで映画は完成した.1959年のことだった.原作は,1955年から翌年にかけて『平和ふじん新聞』に連載された山代巴の小説「荷車の歌」である.山代自身も広島県出身だが,農村文化運動の推進者としての顔を持っていた.彼女は左翼運動により1940年から5年間思想犯として投獄され,夫もまた1945年に獄中死を遂げた.広島県に実在した名もなき老婆の覚書にもとづいて作品化されている.山代は映画の脚本を松山善三,また主演を高峰秀子に依頼したかったが,当時の日本映画五社協定によりそれは実現しなかったという.

 映画でセキを演じた望月優子の力演は他の追随を許さない.若かりし頃は旧態依然とした農家のしきたりや慣習に束縛された若妻を演じ,老境に至るころ(映画では40年という時間が流れ,若者が老人になるまで同じ役者がメイクアップと役作りを頼りに演じきっている)には次世代の若者たちを慣習で縛ろうと試みる場面が完璧に再現されている.かつての自分を苦しめた姑と同じ姿に,今の自分はなり果てていることに気づくことはない.望月は台本を400回は読み込んでいた.そうすると,記憶を超越して生理的に台詞が口を衝いて出るのだという.三國は本作のラストで原爆症によりぬかるんだ田に倒れ込む.その衰弱しきった様子を完全なるものに近付けるため,当時36歳の三國は上顎の歯をすべて抜き演じ切った.1960年の「異母兄弟」では老将軍の役を演じるため,今度は下顎の歯をすべて抜いた.よって,30代半ばに出会った作品に身をささげるため,歯という肉体の一部を失うことになったのである.このことにより,三國の「役者バカ」「怪優」の評価は決定づけられていった.また三國は,長い映画生活の中でこの「荷車の歌」がもっとも印象深い,と述べている.これは,監督を務めた山本のスタイル,すなわち情感を直接描写によって表現しない,という点と,本作によって役者としての生命力をとり戻せたという感慨がある種入り交じっている.

 「イエ」を単位に生活する農民男性とそれを支え続けた女性の姿,その哀しさとたくましさ――極貧生活の抑圧と忍耐を強いられるその抒情的な映像は,草の根運動で唐紙に映し出され,農村部の人々は感嘆したのだった.多くを語らなくとも彼らの団結力を高め,農協を通じた活動を大いに鼓舞したのである.原作の舞台は広島県三次だが,東京から地理的に離れすぎていたため,撮影は杖突峠など主に長野県で行われた.旧庄屋屋敷「殿敷」の内部で生活する農家の様子は余すところなく描写されている.映画は評判を呼び,全国各地で上映された.その期間は10年を超え,観客動員数は何と1,000万人を数える.庶民投資型の映画製作は,本作の成功を追って次々に模倣されていく.それは「松川事件」(1961)「武器なき闘い」(1960)などだが,本作は映画製作の一つのスタイルを確立したという意味でも,人生を懸けた役者の魂が籠もった映画という意味でも,一見映画とは無縁に考えられがちな僻地の農民運動から生まれた作品であるという視点からも,やはり映画の持つ力とは凄いものだと唸らされるのである.

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原題: 荷車の歌

監督: 山本薩夫

145分/日本/1959年

© 1959 全国農村映画協会