▼『イサム・ノグチ』ドウス昌代

イサム・ノグチ(上)――宿命の越境者 (講談社文庫)

 母の国アメリカ,父の国日本.2つの国のはざまでアイデンティティを引き裂かれ,歴史の激流に翻弄されながら,少年の苛酷な旅がはじまる.父との葛藤,華麗な恋愛遍歴,戦争…….「ミケランジェロの再来」と謳われた巨匠の波瀾に富んだ生涯を描ききった傑作――.

 去する数ヶ月前のインタビューで,イサム・ノグチ(Isamu Noguchi)は創造の源泉を「絶望と闘争ともいえる“怒り”」と語った.彼の作品の中でも特に有名なのが,日本の料亭に多く設置されている《あかり》であり,これはノグチの最も親しみやすいオブジェクトである.一方,彼の彫刻作品は「大地」「石」に全霊を捧げるものであった.晩年に制作された大作「モエレ沼公園」のランドスケープは,美術と建築の枠を超えて,建築との境界が不明瞭な豊かな世界観を形成している.ノグチは,日米のアイデンティティの葛藤を抱えた人生を送った.彼は奔放な詩人野口米次郎と芸術的感性を備えたレオニー・ギルモア(Leonie Gilmour)の間に私生児として生まれ,神奈川県茅ヶ崎で育った.自然に囲まれた環境で育つ一方,「混血児」としての差別を受けた.

 日本人の父の独善的な態度,アメリカ人の母からは才能を引き出したいという期待があり,その両者の要求に戸惑いながらノグチは成長した.彼はミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)の再来と称された巨匠であり,父との葛藤,美しい風貌と華麗な恋愛歴,大彫刻家コンスタンティンブランクーシ(Constantin Brâncuşi)やフリーダ・カーロ(Frida Kahlo),医学者野口英世との交流,そして山口淑子との結婚,日系人排斥運動と強制収容所での拘束――波乱に満ちた人生を歩んだ.これらの経験は,東洋と西洋の美の融合を追求する彼の芸術に影響を与えた.孤独感と絶大な名声が彼を取り巻き,どこにも帰属しない感覚が常に彼を悩ませた.彼の精神的な遍歴は,広範な交友関係や女性関係,そして一国に拘束されない抽象彫刻の志向に反映されている.

 彼は自身の言葉で「自分に固有の長所は,この当惑と葛藤という要素にある.自分は二つの世界のあいだで生きており,常に東洋と西洋,過去と現在との軋轢を経験していると思っている」と述べ,少年時代の戸惑いが彼の一生を貫いたことを明らかにした.この戸惑いに対する探求心が,広範な交友関係や女性関係,そして特定の国に縛られない抽象彫刻への志向に影響を与えた.彼は宿命の越境者というよりも,遍歴のコスモポリタンな性格を持つ人物といえるだろう.晩年には冬はニューヨーク,夏はイタリアのピエトラサンタ,春と秋には高松市牟礼のアトリエで制作に没頭した.石材に閉じ込められた女神を彫刻で解き放つ,としたミケランジェロに倣い,地球にランドスケープを「刻みこむ」着想を描いた.国籍の「揺らぎ」は,彼の自己を超越することで解放されるという意味を持っていた.

 ノグチの芸術の源泉は怒りであり,最晩年には「未来の彫刻は地球そのものに刻み込まれる」という壮大な着想があった.日本の石にこだわることなく,ブラジルやインドの石を素材として採用した.月まで到達した人類も,持ち帰ったのは石だけであった,と愉快がったエピソードは彼の創造性を象徴している.本書は,膨大な文献と取材に基づいた労作ではあるが,雑駁な部分も多い.学術論文とは異なる性質の本であるため,引用を基にした考察は簡潔にまとめられるべきである.未公開の私信や「自伝用テープ」,政府文書などの第一級資料を用いて執筆されており,これに基づいてノグチの芸術に内在する「思想性」を解読しようとする意図が感じられる.それでも,不満の部分は大いに残るのだ.

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原題: イサム・ノグチ―宿命の越境者

著者: ドウス昌代

ISBN: 406273690X, 4062736918

© 2003 講談社