売れないシンガーソングライターのジャックが音楽で有名になるという夢をあきらめた日,12秒間,世界規模で謎の大停電が発生.真っ暗闇の中,交通事故に遭ったジャックが,昏睡状態から目を覚ますと――あのビートルズが世の中に存在していない!世界中で彼らを知っているのはジャックひとりだけ!?ジャックがビートルズの曲を歌うとライブは大盛況,SNSで大反響,マスコミも大注目!すると,その曲に魅了された超人気ミュージシャン,エド・シーランが突然やって来て…. |
この世界にビートルズが存在していなかったら,何が起こらなかっただろうか,そして,代わりに何が起こったのか.そうしたことを大胆に想像させる並行世界の物語.もしビートルズが存在していなかったら,いまの音楽シーンはもっと薄っぺらいものになっていて,新しい音楽も出てこないかもしれない.あるいは,現在とは別のタイプの音楽が大流行していた可能性もあるだろうか.本作は,人生がうまくいかない苦痛が人を歪めてしまうことと,成功のエネルギーが心を解放しながら苦悩をもたらす影響を描こうとする.音楽の才に見切りをつけた青年ジャックが「ビートルズ」という巨人の肩の上に乗って名声を得ること,業界では当たり前になっている陳腐なマーケティングやイメージ操作によって成功できてしまったことを,臆面もなく表現している.舞台設定は,世界的な停電という電力システムの失敗から始まる.世界的な電力網に障害が起こり,その結果として文化的なメモリー(記憶)にとてつもない空白が生まれ,ビートルズという偉大なバンドの存在が消え去った「並行世界」にジャックは身を置かれていた.その理由などは判りようもないまま,彼は記憶しているビートルズの曲の歌詞をすべて書き出し,寝室の壁にポスト・イットで貼り付けていく.往年の名曲を自作の曲として発表すると,たちまち彼はポップス史上最高の楽曲のソングライターとして世に知られるようになり,途方もない成功と罪悪感の両方を手にすることになった.
失われた歴史的な宝を掘り出す考古学者,アーキビスト,興行者として彗星のように現れた新人アーティストの力量を,賢人の佇まいを見せる実名出演のエド・シーラン(Ed Sheeran)が鋭く見出すのが絶妙な展開である.ジャックが初めて《イエスタデイ》を披露したとき,彼の友人たちはコールドプレイほど良くないと主張した.シーランの役は当初,コールドプレイのリードシンガー,クリス・マーティン(Christopher "Chris" Anthony John Martin)が務める予定であったが,スケジュール都合で出演できなかったため,シーランにオファーされたといういきさつの名残であろう.シーランは,ジャックに「君はモーツァルトであり,僕はサリエリだ」と率直にいう.完璧主義者で厳格な規律を重んじる音楽家であったアントニオ・サリエリ(Antonio Salieri)の最大の苦悩は,ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)が軽薄な人間であることを知りながら,その天賦の才にひれ伏すしかない残酷な事実への対処法であった.シーランは明らかにジャックに好意を見せているが,認識される才能の差は彼にショックを与えている.しかし,真に優れた才能の前にそれを受け容れる度量を見せる.ジャックはあるコンペティションで,10分以内に誰が最もキャッチーな曲を書けるかという課題に挑戦する.彼がビートルズ《ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード》をオリジナル曲と偽って披露し,「ジンジャー・ギーザー」と自称するシーランが負けを認める.ネットでの新曲公開,アルバムリリースを記念したライヴなどを次々と企画し,すぐに富と名声はジャックのものになっていく.以下ネタバレ.
この並行世界では,ビートルズに加え,ハリー・ポッター,オアシス,コカ・コーラ,そしてタバコという概念も存在しない.本作の初期コンセプトのひとつは,「ディープ・パープル」というバンドをさりげなく「ディープ・オレンジ」と呼ぶことで,紫色は存在させない設定というものだった.しかし,このアイデアは,紫色を着ているエキストラを登場させないのが困難という理由で断念された.ビートルズのメンバー――ジョン・レノン,ポール・マッカートニー,ジョージ・ハリスン,リンゴ・スター――は「この世に存在しない」のか「存在するがビートルズを結成しなかった」のか――この解を大胆に提示した脚本は,賛否を呼んだ.盗作者として成功を収めたジャックが「暗殺されなかったジョン・レノン」に出会うことで,罪悪感と自己嫌悪に立ちすくんでいた彼は自分を取り戻すきっかけをつかむ.ビートルズが結成されなかったので,レノンが有名になることはなく,もちろん暗殺されることもなかった.彼はこの世界で平凡な家庭を築き,子供に囲まれて質素に暮らし,78歳になっていた.レノンは悩めるジャックに対し「失ったものと得たもの.偏見とプライド.でも自分の人生はすべてうまくいった.いい人生を送りたいだろ?複雑なことじゃない.そして,いつでもみんなに本当のことを言うんだ」と呼びかけた.
彼にとって青年ジャックの迷いは,精神的な混乱をきたしているように見え,彼に精神科の治療をすすめる.「元の世界」では,ビートルズは1970年に解散後,レノンはソロ活動のアルバム《ジョンの魂》を12月にリリースしている.その頃,信頼するマネージャーの死により神経症に苦しんだレノンが出会った精神療法が,精神科医アーサー・ヤノフ(Arthur Janov)が提唱する「原初療法」だった.ジャックは,ビートルズの名曲を「横領」して成功を収めたことに苦しみ続けていたが,並行世界でもビートルズの功績を知る人物が少数存在していた.彼らはビートルズの名曲の「真実」とジャックの「罪」に気づいているが,彼を罰しようとはしない.むしろ,ビートルズの功績をこの世界で広めてくれてありがとうと感謝するのである.勇気をもって恋愛の成就に踏み出すジャックは著作権の不正を告白,プロのミュージシャンを引退する.厳しい音楽業界に身を置くクリエイターであり,誠意と謙虚を保つシーランの生き方に,似非アーティストが敵うわけがない.モーツァルトとサリエリの関係ではなく,ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)に対する贋作師ハン・ファン・メーヘレン(Han van Meegeren)というべきなのだ.ロサンゼルスに最初に到着したジャックがレコーディング/リハーサルをしているスタジオは,ハリウッドの6000 W. Sunset Blvd.にあるEastWest Studios.ポール・マッカートニー(James Paul McCartney)が2018年にソロアルバムをレコーディングしたスタジオである.
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原題: YESTERDAY
監督: ダニー・ボイル
117分/イギリス/2019年
© 2019 Universal Pictures