大都会ニューヨークで一旗挙げるべくテキサスからやって来たジョー.だが,現実は厳しくいつしか孤独感にさいなまれる中で,彼はラッツォと呼ばれる小男と出会う.肺を病み,片足が不自由なラッツォの夢は太陽が輝くマイアミに行くこと.やがて奇妙な友情で結ばれた2人は,大都会の底辺から必死で這い上がろうとするが…. |
ハリウッド映画は,1960年代後半まで娯楽を満喫できる大作主義をひた走っていた.膨大な予算の大半はスターのギャラが占め,主要登場人物が幸せな結末で幕を閉じる.それはそれで大きな支持を受けてきたが,陳腐と考える映画製作者たちのフラストレーションが高じてきた.アメリカ国内に目をやると,映画を呑気に楽しむ風潮を吹き飛ばすほど暗い世相が満ちている.ドラッグ,貧困,差別,暴力,セックス,犯罪――時代背景としても,ケネディ暗殺,ベトナム戦争の泥沼化が社会の閉塞感を拡大化していた.この時期から1970年代前半までにアメリカ映画に吹き込んだ突風,それが"アメリカン・ニューシネマ"である.それまでのハリウッド映画の文法,娯楽志向主義の大作映画とは一線を画す,頽廃的でリアルな人物群像の挑戦と挫折,その末のアンハッピーエンド.この新風は鮮烈に人々の目を奪った.しかし,鑑賞後の虚脱感がいつまでも礼賛されるはずもなく,世相のはざまに生まれては消え,後に,この時代を映し出す鏡像として再評価される宿命を持って生まれてきた映画たちは,特別なカラーを放ち続ける異色性をもっている.
テキサスから長距離バスに乗ってニューヨークにやってきたジョーは,カウボーイのいでたちでジゴロをまくことを夢見ていた.自分の魅力的な肉体とカウボーイ姿なら,孤独なニューヨークの女たちを慰めて,富と栄光を手にすることができると考えたからだ.道行く女性に声をかけるも「恥を知れ」と説教され,初めて取った客・キャス(実は街娼上がりの女)からは金を要求するやいなや「私は最高の女よ!」と醜悪な姿で泣き喚かれ,逆に20ドルを巻き上げられる始末.この都会で自分は孤独であることを思い知らされながら,少なくなってきた持ち金に不安をおぼえる.所在なくバーで時間を潰していたジョーに,ラッツォと呼ばれるチンピラが声をかけてきた.ラッツォは薄汚い風体で,咳きこみながら足を引きずって歩く.彼はジョーに上客を紹介すると言い寄り,ジョーはオダニエルという男を紹介してもらう.だがその客は男娼で狂言者だった.怒り心頭のジョーはラッツォを探し歩き,無一文で酒場にいるところを見つける.その惨めな様子を見て,ジョーは彼に対する怒りよりも憐れみを感じた.逆にホテルを追い出されたジョーに,罪滅ぼしに「俺の部屋に来いよ」と誘うラッツォ.取り壊し寸前の廃屋の汚い部屋,そこが彼のねぐらだった.
アメリカン・ニューシネマの終焉は,「ゴッドファーザー」(1972)で決定的となった.アメリカの恥部を暴露する手法がなりを潜め,大作主義の復活である.しかし,誰の目にも明らかな大団円とは言いがたいラストの幅をもたせることで,アメリカン・ニューシネマの余韻が感じられる.この潮流は,明らかに幸せな「だけ」な作品を減らした.本作は,イギリス出身の監督ジョン・シュレンジャー(John Schlesinger)が冷やかな眼で見たアメリカ社会の孤独,それも群衆の中に埋もれる現代的な孤独を扱う.1969年当時,フランソワ・トリュフォー(François Roland Truffaut),ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)らによるヌーベルヴァーグがもてはやされ,ハリウッドや過去の映画の徹底批判から生まれる作品が脚光を浴びていた.本作は,1969年に製作された映画のレイティング・システムで,その過激な描写から「成人映画」に該当するとされたが,それを越えてアカデミー賞を受賞した稀有な例となった.受賞後に成人指定が解除されたことも,前代未聞であった.以下ネタバレ.
ジョーとラッツォの夢は至極単純で,どちらも華やかな場所で成功を収めたいというものだった.しかし,その現実性は乏しく,計画性のかけらもない.ホームレスのラッツォに比べればジョーの姿は傾き者ではあるが,粋はない.彼らはともに世間知らずで間抜けな小悪党である.しかし,「ここではないどこか」を求めてさまよう流浪人なのだ.社会の底辺で這い上がることを夢見ている人物が挑戦し,挫折し,散る.都会の片隅で出会い,肩を寄せ合って生きることを選んだ彼ら2人は,地に足をつけた夢に向かって切磋琢磨する関係にはならなかった.ニューヨークに到着したジョーがその便りを送るのは,前の職場(厨房の皿洗い)の黒人老人しかいないことは,ジョーが故郷においても孤独だったことを示す.時折挿入されるフラッシュバックをつなぎ合わせると,彼は深刻なトラウマを抱えていることが分かる.祖母に引き取られて育ったジョーは,乱れた性生活の祖母に振り回された幼少時代を送った.高校生の時に恋人を輪姦され,彼自身も犯される.そのことで恋人は発狂し精神病院に送られ,今でも救急車をみるとその記憶が甦るのである.一方のラッツォは足にコンプレックスを抱え,犯罪に手を染めながら独りでその日暮しを送ってきた.そんな自分に本当の意味で向き合ってくれる人間などいるはずがない.彼らは友情や愛情とは無縁な孤独な青年で,そんな2人がニューヨークの寒空の下に出会ったのである.
デイヴィッド・リースマン(David Riesman)は,1950年『孤独な群衆』で"現代の人間像"を社会学的に鋭く描き出した.リースマンはアメリカ人の代表的な性格は「伝統指向型」から「内部指向型」へ,さらに「他人指向型」へと遷移することを指摘している.伝統的な文化や慣習が支配する土地では,階級に縛られ,地理的な移動がみられない.そのような社会では保守的な伝統・権威に対する服従が強いられ,個人の主体的な意識は土地に縛られた停滞的な意識に対抗できない.西ヨーロッパから宗教改革,ルネサンス期に入ると,「絶えず慣習により強制された服従」よりも,人々が発達した移動手段によって容易に土地を離れることで共同体への権威の恭順が崩れ始める.個人の生活は,富,名誉,社会的称揚,善などを動機として内面的な価値が見いだされ,目的の指向性は内面的な価値判断に規定されていくようになる.その「内なる声」が,近代的な人間の性格ということになる.さらなる産業社会の発展と成熟によって,社会構造は加速度的に変化していく.生涯の目的にしたがって進む「内部指向型」とはちがい,「他人指向型」とは「手近にある目標」(同時代の人たちが抱く期待)にしたがう.
リースマンは社会が豊かになることで,他者を監視しあう社会が生まれ,そのことが「孤独」であると説明した.人間劇の舞台装置と対人関係の世界が見えなくなることと解釈されるが,ジョーのたどる道は,彼の意図にかかわらずこの現代人の性格の推移に符合する.性格の指向性は,社会構造の変化と移動手段の発達に大きな意味がある.ジョーは田舎テキサスからニューヨークへ,またラッツォとともにマイアミへも長距離バスを使って移動していく.彼の人生に占める故郷での「異常性」は,集団による暴行,強姦,人間性の蹂躙だった.そこから遠く離れたニューヨークにおいては,他人に対する寒々とした無関心があった.路上に人が倒れていても意に介さない行き交う人の多さに,ジョーは戸惑う.しかし一歩,夜の都会に踏み込むと,金を積んで快楽に興じる人々の狂態がそこにある.ゲイ,バイ,アルコール,ドラッグ――同時代の人が期待するコンテンツに身を投げ,自己を性や薬物の力を借りて解放する.そこに現代の都会人の姿があった.ラッツォのような日蔭者を排除する一方,快楽を貪って群れる人々.人に対する無関心を装いながらネットワークを作り上げるコミュニティも同時に存在する事実に,群衆のなかに存在する孤独をジョーは肌で感じ取る.
ラッツォはジョーに心を開くことはなかった.社会の最底辺で足掻く者だけに備わる嗅覚を異常に働かせる彼は,一目でジョーを気に入った.ただし利用できるエモノとして,である.合理的に利益を追求する術をほとんど本能的に心得ているラッツォは,本来の自分に向き合ってくれる人などいないことを知悉しているが,またそのような人生の空しさも自覚している.だから誰にも心を開くことなどできないのだ.そんな彼は,都会の片隅で独りさびしく死んでいくはずだった.しかし,実際の彼はジョーの体温に包まれてこの世を去った.「フロリダにはヤシの木がいっぱいあるんだ」と語ったラッツォのために,ヤシの木柄のアロハシャツを着せ,血を売ってまで生活費をまかない,病気の薬を買ってきてくれたジョー.悪態ばかりつくラッツォが,1度だけジョーに「ありがとう」と礼を言う.ラッツォにとって,ジョーは唯一無二の友人と映ったのだ.
マイアミの風景は,バスの窓越しにジョーとラッツォの顔に照らされる.しかし,マイアミの生活が2人に訪れることはない.ラッツォはこの世におらず,彼がいなければマイアミに滞在する意味はない.無謀な目論見の自分には,所詮手に入らない場所.ジョーの今後の生活は予測不可能だ.故郷から遠く離れた都会で彼が得た唯一のものは,希望の裏返しの挫折のなかで支えを感じ取れたラッツォとの人間関係だった.人生は結局,孤独との対話である.しかし,血の通った関係がその寂寥を和らげてくれる.2人の青年は短い期間で,それを学んだのである.わずか数年で沈静化したアメリカン・ニューシネマの潮流は,社会の希望が停滞した時期に必然的に生れて去った.しかし,作品は消えない.そのひとつである本作は,ハーモニカの物悲しいテーマ曲とともに長く記憶される映画である.
ジョン・ヴォイト(Jon Voight)はもともと舞台役者で,当初ジョー役はリー・メジャース(Lee Majors)が務める予定だったが,テレビドラマの都合で降板.マイケル・サラザン(Michael Sarrazin)が後任のはずだった.けれども,エージェンシーが出演料を釣り上げたのでヴォイトが選ばれた.ツヤツヤしたヴォイトの顔と表情は,田舎のカウボーイかぶれがぴったりだ.邦題は「真夜中のカーボーイ」,原題は"MIDNIGHT COWBOY".これは当時日本ユナイト映画の宣伝部長だった水野晴郎が都会的な雰囲気を演出するため,あえて「カー=車=都会」の連想を狙って命名したものだという.ただそのようなひねりを加えるよりも,カウボーイとは北米でゲイボーイの俗称であり,ジョーがカウボーイの衣装を捨て去るシーンが屈辱的な売り物としてのゲイとの訣別を比喩することを尊重して,そのまま「カウボーイ」にするべきだった.
ラッツォを演じたダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman)の役の作り込みはメソッド演技のお手本といえるほど素晴らしい.片足の不自由さをリアルにするため,常に片足の靴に小石を入れていたという.また,タクシー運転手にブチギレるシーンは,本当に轢かれそうになったための激怒だったというのが面白い.マイアミの砂浜でジョーより速く健常な足で走り回り,プールサイドで料理を人々に振舞う夢想のシーンは愉しくも儚い.ホフマンは「卒業」(1967)で鮮烈なデビューを飾った後,オフ・ブロードウェイで一人芝居をやっていたのがこの時期である.食うに困るほどだったというから役者稼業とはわからないものだ.本作で「卒業」のナイーブ――本来の意味として――な青年とはかけ離れた汚れ役をやってのけ,評価を高めたというが,実はそれほどかけ離れた役柄でもないように感じられる.ただ一つ,残念で仕方がないのは,ジョーが長距離バスでマンハッタンに到着したシーンで,なんと無名時代のアル・パチーノ(Al Pacino)がベトナム帰還兵で出演しているというが,場面のシークエンス上カットされている.
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原題: MIDNIGHT COWBOY
監督: ジョン・シュレシンジャー
113分/アメリカ/1969年
© 1969 Florin Productions,Jerome Hellman Productions