▼『徒然草』吉田兼好

徒然草 (講談社文庫 古 3-1)

 現存最古の版本といわれる流布系統本を底本に,懇切な校注,解説並に現代語訳を添え,連綿と読み継がれてきた必読の随想録“徒然草”に流れる思想・哲学・人生観を,わかり易く現代に蘇らせた新編集.巻末に語彙索引を付す――.

 倉後期~南北朝期という成立時期だけでなく,古今東西の随筆文学として最高峰の域にあるといってよいだろう.長短不ぞろいの全244段,人生論,世相観,四季,自然,博物,小話の挿入,現世を否定した仏教的説話,見聞にもとづく冷笑や道徳観,評論,趣味論,現実的な生活圏の処世術――多彩な連歌のように淡々と論じ配列された脱俗世の筆致は,含蓄ある美意識により柔軟にして高雅である.小林秀雄は自身のエッセイ(『モオツァルト・無常という事』1961年)で,吉田兼好の「物が見え過ぎる眼」を指摘,「空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件」と評した.

 卜部(吉田)兼好は,神祇官に仕えた卜部氏の系図のなかで,吉田神社の神主を兼ねる吉田流の系譜に属している.朝廷に勤め始めると,20代半ばには後二条天皇の外祖父堀川家に側近として仕えた.朝廷と公家は大覚寺統持明院統の二派にわかれて争い合った時代であったので,出世と権力闘争に嫌気がさしたか,1308年(延慶元)天皇の死により宮廷から退き,1313年(正和2)ころ出家した.大覚寺統と対立していた持明院統花園天皇が即位すると,兼好は出世の道を絶たれたのである.出家後,比叡山横川や京に住んで,南朝北朝の対立する社会変動の激しい時代に傍観者として過したことが本書で述べられている.

 隠棲する賢人としては「第十八段」――尭帝の世の高士許由は,尭から天下を譲られようとした時,「穢れたことを聞いた」と潁川で耳を洗い,彼は箕山に隠れ住んだ――この逸話は『蒙求』「許由一瓢」にある.質素にして,奢りを退け財産を持たず,利益をむさぼらない賢人を称賛した兼好は,出家してもどの宗派にも入門せず静寂を好み自らを慰めた.醍醐寺に近い日野山に構えた草庵に隠遁し,和漢混交文で整然とした構成に無常厭世が貫かれた『方丈記』を書いた鴨長明が「折り折りのたがひめ(不遇)」と自己の不運を嘆いたのに対し,兼好の場合は,悲観とともに有職故実を人生訓に生かした飄々とした趣きがある.

まことの人は,智もなく,徳もなく,功もなく,名もなし.誰か知り,誰か伝へん.これ,徳を隠し,愚を守るにはあらず.本より,賢愚・得失の境にをらざればなり(第三十八段)

 兼好は,二条為世の門に入り,浄弁・頓阿・慶運とともに二条派の和歌四天王の1人に数えられる歌学者・歌人でもあった.その時期に深く身につけた有職故実の教養こそが,古代の文化や制度に深い敬意を抱き,現代においても模範として取り入れようとする尚古思想の風格を作品に形成したのである.兼好の没年は,文和元年/正平7年(1352年)以後と思われるがはっきりしない.晩年には足利幕府の武家と交流し,駿河の国守今川貞世歌人として親交があったことは確かである.伊賀の国の草庵で最晩年を送ったと伝承にあるが,終焉の地は木曽恵那山麓岐阜県中津川)とも長泉寺(京都市右京)ともいわれ,墓所は各地に建っている.

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原題: 徒然草

著者: 吉田兼好

ISBN: 4061310593

© 1971 講談社