■「楽聖ショパン」チャールズ・ヴィダー

楽聖ショパン [DVD]

 フレデリック・ショパンが10歳の時音楽の先生ジョゼラ・エルスナーは天才少年のために進むべき1つの道を,ショパンの父に申し出た.1つはパリへ行って演奏会を聞くこと,1つは祖国ポーランドのために大音楽を作曲することであった.第1の思いつきは貧乏のために果たすことが出来ず,月日は流れて,ショパンが22歳の時,ポーランドは革命騒ぎで,彼はエルスナー教授と共に,動乱の祖国を去ってパリへ赴いた….

 冠7歳ですでにポロネーズを作曲,出版したフレデリック・フランソワ・ショパン (Frédéric François Chopin)という偉大な作曲家に関する虚構の物語.ショパンは,「ピアノの魔術師」と呼ばれたフランツ・リストFranz Liszt)と親交を結び,さらにリヒャルト・ヴァーグナー(Wilhelm Richard Wagner)やクロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy)に大きな影響を与えた楽聖の一人である.フェルディナン・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix)の描いたショパン肖像画には,線の細さと芸術家の激情が相半ばして異様な存在感が醸し出されている.残念ながら,これはショパンに向けた1つのイメージである.

 不治の病(当時)に冒され,喀血しながら無念の思いを作品にぶつけた,というステレオタイプ――結核という忌わしい病を礼賛するなど不謹慎なことはないが,映画の中で動き回るショパンの姿は健康的で体力にあふれている感じなのである.それを演じたコーネル・ワイルド(Cornel Wilde)は,確かに血色もよく,細身のピアニストを演じるには似つかわしくない肩幅の広さなのだ.晩年の病躯も精気がみなぎり,こと切れた後に「ああ肩が凝ったぜ」とでも呟きながら,ベッドから起き上がってきそうな気配が消えない.これは一般的イメージとしてのショパンではなかった.また,湧き出る泉のように作曲する印象ばかりが残るが,作品を生産する苦しみを描く必要性はないのか.それとも,ショパンに限りそのような苦悶とは無縁だったと信じられているのか.

 ショパンが10歳のころ,ワルシャワ音楽院の教授ヨーゼフ・エルスナー(Joseph Elsner)は両親を説得していた.この天才少年の才能を世界に示すため,パリでピアノの技術を高めるよう勧めたのである.それには2つの目的があった.第1にパリで演奏会を開くこと,第2に祖国ポーランドのために作曲した音楽が世に残っていくことである.だが,経済的に不安を抱える一家はフレデリックをパリに行かせることはかなわず,12年の歳月が流れた.22歳になったフレデリックは,ついに実現した演奏会でポーランド総督を侮辱した咎でパリに亡命した.今のポーランドはロシアの圧政に虐げられ,革命の気運が高まっていた.パリではエルスナーがフレデリックの演奏会公演のため奔走したが,有力な音楽興行師プレイエルの理解を得ることができず,追い返されようとしていた.その時,偶然にもフランツ・リストがお気に入りの曲を即興で奏で始めた.「この曲は誰が作曲したのだろうか」というリストの問いに答えず,フレデリックはおもむろにピアノを弾き始めた.作曲者の存在をいま知ったリストは,フレデリックとの二重奏を楽しみながら,この若き天才との友情を芽生えさせた.

 リストの助力でやっとリサイタルが実現したが,当日にポーランドの革命の志士12人が逮捕され,1人が死亡したという報せが入る.古い友人たちを悼み,また祖国への念からフレデリックは演奏を中座し壇上を去ってしまった.批評家たちはこの態度をこぞって罵倒したが,パリで売れっ子のジョルジュ・サンド(George Sand)だけはフレデリックを「100年に1人の天才」と賞賛していた.サンドはリストの協力を得て,フレデリックの独奏会を企画し,これが好評を博してフレデリックはパリ社交界の寵児になっていく.軽妙な音楽性がパリに受け,出版の楽譜は飛ぶように売れた.同時に,サンドに心ひかれたフレデリックは恩師エルスナーの諫めを退け,彼女の別荘地スペインマジョルカ島でサンドとの同棲生活を開始する.

 物語の筋は,知遇を得たショパンの躍進と祖国愛であるが,それを映画のテーマにするのは抵抗を感じない.ワルシャワ音楽院に入る前になぜ,10歳のショパンが「子犬のワルツ」を弾きこなせるのか?また,「幻想即興曲」を宮殿で披露するのは噴飯ものといえるだろう.この曲は遺作であり,生前に発表されることはなかった曲である.ショパンは生涯3人の女性を愛したとされているが,ジョルジュ・サンドとの恋愛に限定されてほかの2人はまったく無視されている.このサンドという女流作家が何者なのかほとんど明らかにされず,うさんくさい男装とフェミニストの主張がなされるだけの印象だ.この女性は,ポーランド王の血をひく軍人の家系に生まれ,フランス名士の男爵と結婚し2人の子をもうけたが家を飛び出し,単身パリの社交界に出入りしていた.葉巻を吸い,男性のズボンをはき,当時の女性としては破天荒であった.彼女を目にしたショパンは「本当にあれが女か?」と口にしたほどである.サンドは自由に男性遍歴を重ね,性的欲望が強く,愛した男性の多くは年下であった.ショパンより6歳年長である.

 ワルシャワで別れたコンスタンチアがポーランドの土を持って革命家の保釈金を作ることをショパンに持ちかけた事実はない.また,ショパンを看取ったのは姉ルドヴィカ(Jedrzejewicz Ludwika)である.エルスナーやコンスタンチアは実際には同席していない.ルドヴィカはショパンの遺言どおり,遺品の整理をしたあとワルシャワに彼の心臓を持ち帰った.心臓はサント・クロワ聖十字架教会に安置されたが,この死後の経緯は映画で完全に無視されている.これも理解に苦しむところだが,どうやら本作の製作者たちは,ショパンを「元気いっぱいの愛国者」として描くことに腐心したらしい.それを考慮すると,作中でショパンが演奏を中断してしまうシーンの位置づけが明確になる.

 ショパンの愛したポーランドは,彼の誠意に応えた.ショパンの命日は10月17日なのだが,それに合わせて国際コンクール,ショパン国際ピアノコンクールを1927年からワルシャワで開いている.このコンクールは,チャイコフスキー・コンクールと並ぶ権威をもっている.

 ショパンの演奏中断は,3回登場する.1つはポーランドでの演奏会で,総督の前で演奏することを「虐殺者の前では弾きません」と言い放ち,大間を去る.2つはパリでリストの援助を得て開かれた演奏会で,12人の友人としての革命家が捕らえられ,1人が死亡したことを知った場面だ.3つはポーランド暴動で逮捕された仲間の保釈金を作るため,各国を行脚してコンサートを開く場面で,そもそもこんな事実はないのだが,「革命のエチュード」と「軍隊ポロネーズ」を輻輳させ最後に「軍隊ポロネーズ」でまとめ上げる.そのさなか,倒れて死の床につく.要するに,事実の歪曲にみちた滅茶苦茶な作りで,本作の製作・出演者はまさに「やりたい放題」である.まさか死後のショパンとしてもアメリカ合衆国からみた第二次大戦時局において,祖国愛の象徴に祭り上げられるとは思ってもみなかったはずだ.

 本作の総括を述べるなら「デタラメを言うな」の一語である.

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原題: A SONG TO REMEMBER

監督: チャールズ・ヴィダー

113分/アメリカ/1945年

© 1945 Columbia Pictures Corporatio