■「ミュンヘン」スティーヴン・スピルバーグ

ミュンヘン [Blu-ray]

 ミュンヘン・オリンピック開催中に起こったパレスチナゲリラ“ブラック・セプテンバー 黒い九月"によるイスラエル選手団襲撃事件.イスラエル機密情報機関“モサド"は暗殺チームを編成,<報復>を企てた.リーダーに任命された男アヴナーは哀しみと愛国心を胸に,ヨーロッパに渡る.妊娠7ヶ月の妻を残して.テロリスト指導部11人をひとりずつ消して行くアヴナーと仲間達は,見えない恐怖と狂気の中をさまよう….

 ュンヘンオリンピック(1972年)開催中,パレスチナ解放機構PLO)過激派"黒い九月"がイスラエルのコーチと選手の2名を射殺,9名を人質に取った事件の報復として,イスラエル首相,モサド長官直々の極秘任務"神の怒り作戦"――テロの首謀者および関与者11名の暗殺――を命じられたモサド内部のエージェントの任務遂行と苦悩を描く.9人の人質は全員死亡,実行犯8人のうち3人の逃亡を阻止できなかった(5人は自爆または射殺で死亡).本作は,テロとその報復(Vengeance)が繰り返される定式化された構図,報復者の自己目的化された非合法的手段は,テロリストの自己目的化された暴力行為と本質的に同じであることを描いたジョージ・ジョナス(George Jonas)の秀逸な原作を忠実になぞっているように見える.だが,原作と根本的な乖離がなされた作品化であり,映画の冒頭に挙げられる「事実を基にした物語」というメッセージは,表面的なものに過ぎない.

 敬虔なユダヤ教徒を母にもつスティーヴン・スピルバーグSteven Spielberg)は,これまでイスラエル政府に多大な援助を行ってきた.「シンドラーのリスト」(1993)では親イスラエルのスタンスを固持してきたように思われ,本作の撮影は極秘のベールに包まれたまま進行したが,その理由はパレスチナ側を刺激しないことに細心の注意が払われたためと理解されてきた.スピルバーグのこれまでの映画性から導かれる予測としては,当然のことだった.蓋をあけて驚いた人々,それはシオニストやリベラル系の作家や論客だった.本作では,イスラエルと対立するパレスチナ武装過激派グループに大義名分を与えたかのように登場させていたからである.少なくとも,パレスチナ人の若者に明確に信念を主張させている.「セーフ・ハウス」で偶然にもモサド暗殺チームと居合わせたパレスチナ武装過激派との対話で,国家が存在しない民族の悲しみがお前らに分るか,その「国家樹立」のためなら,たとえ100年かかろうとも苦境をしのぐ覚悟は出来ている,と主張するパレスチナ側の正当性に,本作は加担しているとみなされたわけである.

 聖地として東エルサレムを首都とする国家の樹立については,時代によってその目指すべき展望は変遷を辿っている.たとえば,1972年当時,パレスチナ解放機構の目指す「国家」とは,非宗派的な民主的国家を意味したと考えられていた.ユダヤ,キリスト,ムスリムが棲み分けて存在するような国家である.しかし,1987年のガザ地区においてイスラエル人とパレスチナ人の衝突をきっかけに起こった市民蜂起(インティファーダ)で国家樹立は現実主義的路線に変更された.以後パレスチナ人とイスラエルの共存する独立国家建設に主眼が置かれ,1993年のオスロ合意,パレスチナ暫定自治区設立がなされた.批判される第2の点は,アフナーらモサドの暗殺チームが,結局自分達のやっていることはテロと変わりはないのではないか,と悩むことに寄せられた.これを保守派やシオニストは映画そのものが優柔不断で現実に怯んだと理解した.さらに違った角度から寄せられた批判から,映画のラストで映し出される世界貿易センタービルのツインタワーの意味には,暴力の連鎖への非難が込められているとして,ブッシュ政権の対テロ強硬路線に異議を唱える映画との見方を支えた.スピルバーグの述懐と映画の描写から,そのメッセージがどこに求められるかを探ってみれば,実に平凡な主張であることがわかる.「暴力は暴力では止められない」ので,「このような悲劇を国家から個人レベルで生むことになる」ということである.実に月並みな主張ではあるが,史実に忠実であれば,事件をふりかえる意義はかろうじて保たれる.

 暴力の正当化はそれ自体の自己目的化をまぬがれず,それと大義名分は別次元のものとして存置する,というのはジョナスの原作で力点が置かれた部分であった.しかし,映画化された作品の問題点は,テロ行為と報復行為のみを対立の構図として中核にすえ,その周辺部の描写がきわめて希薄になっている点にある.それとは対照的に,テロ行為の惨殺は丹念に,反復して描かれている.様々な要因が複雑に絡みあう事実関係の一部を巧みに切り取り,つなぎ合わせて史実に立脚することをうたう姿勢は,史観を誤り,議論をミスリードしかねない.ミュンヘン事件の報復と真の目的は,イスラエル政府はイコールとは考えていなかった節がある.まず,標的に挙げられた11人という数である.これはミュンヘン五輪テロで犠牲になった2人のコーチと9人の選手の帳尻合わせである印象は拭えない.PLOおよびPFLP首脳――アラファトPLO議長),ハバシュPFLP議長),ジブリル(PFLP総司令部派議長)――はターゲットには含まれておらず,組織に根本的な打撃を与えるための暗殺計画ではないことは明らかだった.襲撃事件の計画・支援・実行もしくは間接的関与者のみを対象にする対症療法的な措置で,いわばヒュドラの首を切り落としても次々に首が伸びてくることは自明だった.事件の直後,報復としてイスラエルPLOの本拠地レバノン南部へ侵攻し,民間人を大量虐殺している.映画では,この事実に全く触れていない.五輪テロを当時のフィルムでふり返り,選手の惨殺場面を執拗に挿入する映画の手法と,無視された軍事行為との間には,明らかに齟齬がある.

 次に,標的殺害の描写の難である.最初に殺害されたのは,リストの4番目に挙げられていたワエル・ズワイテル(Abdel Wael ZWaiter)だった.原作では,アフナーは銃を構えた後,実行まで一瞬躊躇するが,ベレッタを標的に向けてぴたりと構える手際のよさは実に見事なものだった.暗殺術を仕込まれた人物の初仕事として,ぬかりを見せてはならない場面である.それが,映画ではぶるぶると震える手で,銃身を上手くつかむことすらままならず,時間をかけて銃を構えた.暗殺者が恐怖と動揺で銃を構えることすら難しいという,原作に逆行する場面に変えられていたのである.4人の部下はそれぞれ文書偽造(ハンス),爆薬(ロバート),自動車(スチーブ)とそれぞれの専門分野を自己紹介するが,カールの仕事だけは明らかにされていない.殺害現場に登場して薬莢を拾ったりするカールの役目は,「スイーパー」である.工作員が現場を立ち去る時,脱出経路を確保し,証拠を回収し,最後に現場を後にするという,最も危険な立場である.したがって,誰よりも冷静で経験豊富な人物が適任とされる.それほど重要な人物の役割説明を省いたことは,何か意味があるだろうか.むしろ,このスイーパーが後に女暗殺者の甘い罠に陥り,あっけなく落命するように,工作員といえど人間であったことを明確化するほうが,本作の主旨に沿う.

 「事実を基にする物語」の溝は,顕著に現れているといってよいだろう.それは,現実を切り取る作品であることの自覚を製作者が欠いていることによる場合もあるし,歴史的側面の描写を意図的に回避することによってもたらされる場合もあるだろう.作品を構成するゲシュタルトから排除された部分こそが,重要なメッセージを含んでいることは珍しくない.歴史や社会を題材にする以上,主観的な解釈に終始することは,どれほど客観的に見える作品であっても避けられない.その歪みを修正しながら真実の姿に迫っていくのが,他の作品や学問ということになるので,その意味では本作も真実に迫る行程をどこかの側面で担っていくことになるのである.

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原題: MUNICH

監督: スティーヴン・スピルバーグ

164分/アメリカ/2005年

© 2005 DREAMWORKS LLC./Universal Studios