山間に住む羊飼いの夫婦イングヴァルとマリア.ある日,二人が羊の出産に立ち会うと,羊ではない何かが産まれてくる.子供を亡くしていた二人は,”アダ”と名付けその存在を育てることにする.奇跡がもたらした”アダ”との家族生活は大きな幸せをもたらすのだが,やがて彼らを破滅へと導いていく…. |
厳しい自然に対する畏怖心を一身に背負いながら,アイスランドの極北に位置する厳寒な土地で繰り広げられる物語.この土地の夏は日がほとんど沈まず,白夜が続く.シネスコ画角で描かれる,青を基調とした硬質で仰角の多い風景は,北欧の厳しい自然と一軒家の対比を見事に表現している.深い霧に包まれた谷間,鈍く光る空,幽玄な山肌が広がり,遠くには雪を冠した白い尾根が見える.羊小屋を掃除し,餌を与える夫.トラクターを操縦する妻.広がる緑の大地には牧羊犬が佇んでいる.家の窓からは外を眺める猫.夜の時間や夫婦の寝室が頻繁に描かれながらも,常に照らされ続ける太陽の弱光.これらの要素が,物語に非現実的な響きを与え,鑑賞者を明るくもぼんやりとした夢幻的な雰囲気に引き込んでいく.
舞台はアイスランドの人里離れた高地.主役は若い夫婦で,牧羊を生業としている.この設定の中で,アイスランドの羊が他と一切交配せずに生きてきたことが強調され,アダという異端の存在が際立って感じられる.その存在は謎めいているが,同時に心地よさをもたらす.低いアングルからのアダの後ろ姿は,非現実的な可愛らしさを湛えており,そのリアリティは10人の子役や4匹の子羊,特製スーツを合成して作り上げられたものだという.アダが着用するウールのセーターは,監督の皮肉だろうか.アダを生んだ母羊が邪魔者となり,マリアがその母羊を冷酷に射殺する場面は,物語に深みと緊迫感を与えている.アダの母羊には"3115"という数字がつけられており,これはエレミヤ書31章15節に対応している.
主はこう仰せられる:嘆きと激しい泣き声がラマに響く.ラケルは子らのために泣いている.子らはもういないのだから,彼女は子らのために慰められることを拒む
物語は"生命の誕生"をテーマに掲げており,性交渉が切り離せないモチーフとなっている.夫婦が営みを通じて新たな生命をもたらす描写は,物語の最後を飾る皮肉なエンディングだ.タイトルの「LAMB ラム」は,「サテュロス」と呼ばれる快楽と欲望の獣神を象徴し,本作が"性と誕生"の物語であることを提示している.「サテュロス」はギリシャ神話に登場する半人半獣の精霊,山羊の角を持ち,豊穣の化身とされており,アダが音楽を愛し,踊りを楽しむ描写からも,サテュロスの血を引く存在であることが垣間見える.
マリアがベッドで本を読んでいるシーンがある.その本はミハイル・ブルガーコフ(Mikhail Bulgakov)『犬の心』.ちょっとしたオマージュで,タイトルがアイスランド語なので見逃しやすい.ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel)チェンバロ組曲第4番ニ短調HWV437より,荘厳な《サラバンド》が使われている.この曲は,映画で印象的に使用されているが,16世紀のスペイン宮廷で流行した時代,奔放で官能的すぎるという理由で禁止された曲だった.
++++++++++++++++++++++++++++++
原題: LAMB
監督: ヴァルディマル・ヨハンソン
106分/アイスランド=スウェーデン=ポーランド/2021年
© 2021 GO TO SHEEP, BLACK SPARK FILM &TV, MADANTS, FILM I VAST, CHIMNEY, RABBIT HOLE ALICJA GRAWON-JAKSIK, HELGI JOHANNSSON