▼『無影燈』渡辺淳一

無影燈(上) (文春文庫)

 直江は大学病院の講師まで務めた優秀な外科医であったが,何故かエリートの道を棄て,個人が経営するオリエンタル病院の一医師として働いていた.どこかニヒルな影のある直江に惹かれた看護婦の倫子は,やがて彼と深い関係を持つようになったが,それでも容易に人に心を開こうとしない直江に恐れのようなものを感じていた――.

 辺淳一の作品は,その多くが自伝的な要素を帯びつつも,そのなかでも伝記の色彩が濃いものほど完成度が高い傾向が見られる.半自伝小説『白夜』,野口英世に関する8年余りの徹底的なリサーチに基づいて生まれた『遠き落日』は,渡辺が長らく医師としての経験を積み重ねた中で培った苦い人間観と作品性が見事に調和した傑作だった.

 物語の中心に位置するのは,優れた外科医である直江庸介.彼は大学病院のエリートコースを捨て,個人病院に所属した.複数の女性と関係を持ちながらも,直江は看護師の倫子を北海道の旅に誘う.しかし,その背後には直江の体が不治の病に冒され,余命いくばくもないという苦悩が漂っている.『無影燈』というタイトルは,影を作らない照明具を指し示している.

 手術台の上で縦横に踊る外科医の手は,まさに影のない世界での緻密な舞台裏を表現している.本書は,渡辺が後期に探求した「中年のエロスとエンタテインメント」に分類されるものではなく,むしろ初期の「医療もの」の作品である.しかし,1972年の時点で,そのどちらの側面も見事に表現され,物語は紋切り型であり,構成も強引ながらも,ニヒルで孤高な男が発する医療の基本原理には,思わず心を打たれる真実味が漂っている.

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原題: 無影燈

著者: 渡辺淳一

ISBN: 4167145197, 4167145200

© 1997 文藝春秋